邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B110) 「魏志依拠」かどうかの三択とその影響について

(星天講@hoshisora_cさんとのX(旧ツイッター)での検討により)

後漢書魏志依拠かどうか?」について、三択で整理ることが出来ました。

後漢書に関する三択(57年107年遣使記事除く)

A:魏志に依っている(通説)

B:魏志に依っていない(支持例:当方)

C:魏志に依っている部分と依っていない部分が有る(支持例:星天講さん)

→ポイントは、今までの邪馬台国論議の重要な説は、基本的に通説Aに基づいているので、それがBやCになると成立しなくなること。

 

具体例として、邪馬台国論議の核心課題と言える行程記事を見てみます。

魏志倭人伝には行程記事(下表「イ」)が有ることはよく知られています。

→「イ」のうち、後漢書に関連記述が有るのは「イ」の最初と最後の以下記述だけです。

最初:從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

最後:自郡至女王國萬二千餘里

➡中間部分が無いことに関しては、A・B・Cによって以下のように考えられます。

◆Aの場合:

范曄は魏志を参照して「イ」の行程記事も見たが、(何らかの理由で)最初と最後だけ残して中間部分は省略した」という見方になるでしょう。

◆Bの場合:

→「范曄は魏志とは違う史料(有力候補は東觀漢記や華嶠書を始めとする衆家後漢書を見た」ことになります。そのため、「范曄が見た史料に行程記事が無かったから書かなかった(書けなかった)」と推定することになります

そして東觀漢記や衆家後漢書に行程記事が無かったと考えることは、後漢代には倭との交流が少なく情報が集まっていなかったという想定とも整合性が取れます。

◆Cの場合:

魏志以外に参照した史料が有ったと考えるのですから、その史料が何だったのか?ということが重要になります。

魏志に無い57年107年の後漢代遣使記事などが載っていたという想定になりますから、Bの場合と同じく後漢代成立の東観漢記やそれを基にした衆家後漢書になるでしょう。

前述のように、後漢代には魏志のような行程記事がまだ無かったとすると、Cの場合も後漢書に行程記事が無いのは、魏志からの省略では無く、范曄が参照した後漢代原史料には行程記事が無かったから書かなかった」と考えるのが適切になります。

後漢書を以下に示します。行程記事は赤字部分であり、魏志に比べて遥かに少なくなります。(「其大倭王居邪馬臺國」は魏志にもない表現であり、慎重な検討が必要と考えていて、文末の[追記]で少し言及します)

 

➡結果的にBではなくCであっても、「後漢書に行程記事がないのは後漢代原史料に行程記事が無かったから」と考えることになります。

これの影響を考えてみると、核心として以下が有ります。

後漢代の倭の中心地」を考えるには、後漢書の記述に依って考えることになり、魏志の行程記事は使えなくなる

→ただし、「対馬海峡を渡った」のは確実と考えてよいでしょうから(出雲方面などは遠すぎる)、後漢代でも対馬壱岐は経由地になります。

しかし、それ以外の国々などは、後漢代では魏志倭人伝の記述とは相違していた可能性が出て来ます(卑弥呼初回遣使は230年代頃で、後漢代の遣使は例えば107年遣使を考えたとしても、100年以上の年代差が有り、その間には大乱・共立もあったので、国々の構成などにも大きな変革が有ったのは確実でしょう)。

魏志倭人伝の行程記事の多くの部分が、後漢代においては使えなくなる可能性が高いとなったら、邪馬台国論議に大きな影響が出ると考えます。

 

なお、内藤湖南氏は「范曄は魏略も参照しており、魏略に57年107年記事が有ったという推定」をしました。[追記2]に湖南氏の論考を引用します。

しかし、その推定の根拠は以下のようなものです。

(1)魏略は、裴松之が「西戎伝」を引用しているように、後漢代から詳述している

(2)魏志は、「烏丸鮮卑伝」のように、基本的に後漢代の記事は省略している

(3)結果的に、「魏略には後漢代遣使記事が有ったが、陳寿が省略した」と推定

➡湖南氏の実際の文章は引用に有るように、後漢書の此條(57年107年遣使)は、三國志には據(よ)らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如しと、「疑うべからざる」とまで書いています。それに対しては、魏志が基本的に後漢代を省略しているのは事実でも、遣使記事が魏略に有ったという根拠は無く、相当強引な推定と言わざるを得ません。

ただし、魏志倭人伝に「漢時有朝見者」と有るのは、陳寿が57年107年遣使記事を見ていたことを表していると考えるのは妥当でしょう。しかし、この遣使記事は後漢朝の公式記録であることは間違いないですから、「東観漢記」に記録されていたものということになります。

そして、「東観漢記」の逸文を見ると、”後漢書に「東観漢記」からの記述が有る”ことが書かれています。また、同様に華嶠「漢後書」からの記述も有ります。

結果的に、范曄は「東観漢記」や「漢後書」を参照していたので、わざわざ「魏略」を経由して後漢代情報を知る必要は無かったと考えるのは妥当性が有るでしょう。

湖南氏の「魏略から採った」という推定は無理が有ると言わざるを得ません。

(このような無理な推定になったのは、「成立年代」が大きな理由と思いますが、范曄が「後漢代原史料」を参照していたと考えると、後漢書魏志の成立年代の逆転の影響は解消されます)

以上

[追記1] 「其大倭王居邪馬臺國」について

「女王国」とは書いていないので、「男王」の国と考えることになりそうです。そうなると卑弥呼共立(180年頃?)より以前のことになります。しかし(大)乱→共立で支配領域が広がったのは確実でしょうから、それより前に「倭王」が支配していた国が有ったのかどうか。

個人的には疑問と思っています。しかし「大倭王」を普通に考えるような”「大+倭王」ではない”と考える説もあります(例えば魏志倭人伝の後の方に出て来る「大倭」と絡めるなど)。

結局は、まず「魏志非依拠」の認識に立った上で、「大倭王はどの時期の情報か?」ということを改めて考える必要がありそうです。

 

[追記2] 内藤湖南卑弥呼考」抜粋(青空文庫より)

卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書三國志との間に存する※(「止+支」、第3水準1-86-36)異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。

三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。
 今先づ單に其の先出の書たる理由によりて、左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。

(ここに魏志倭人伝の全文が引用されている...内容省略)

この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡海千餘里。復有國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。

倭在韓東南大海中。依山島居。凡百餘國。自武帝朝鮮。使譯通於漢者。三十許國。

 三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへるは魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。

樂浪郡徼去其國萬二千里。

 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡のより起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

其地大較在會稽東治之東。與朱崖※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)相近。故其法俗多同。

 三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。是れ改刪の際に起れる疎謬なり。

城柵屋室。父母兄弟異處。

 三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一條に在り。云く

女王國東度海千餘里。至拘奴國。雖皆倭種。而不女王

 三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、※(「隱/木」」、第4水準2-15-79)括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち

又有夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)。傳言秦始皇遣方士徐福童男女數千人海(中略)所在絶遠。不往來

の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※(二の字点、1-2-22)明白なり。
 但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々

 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。

附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。

 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。

追記以上