邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B096) 陳寿の手法、及び、范曄は節略したか?

前の記事の「呉志」と「魏志 東沃沮伝」の記述を並べてみました。

左右の記事の内容自体は全く関連性がありません。

しかし、公式記録と古伝説を取り混ぜて記述しているのは特徴的と感じます。

そして、それが陳寿の手法の特徴の一つではないか。

→ 上表の場合の「公式記録」は魏代なので、一見すると「古伝説」まで魏代に見えてしまいます。そのため、後漢書に同様の古伝説が記述されているのも魏代情報に見えて、”後漢書にも魏代情報が有るのではないか”という説もあります。

しかし、実際には荒唐無稽な話の古伝説は相当古い情報と思われ、魏代ではないでしょう。結果的に、後漢書の記述は魏志から採ったものではなく、范曄が参照した後漢代原史料(或いはそれを継承した史料)にあったものを、范曄が引用したと考えるのが妥当性有りと推測します。(沃沮で「国情説明」とした部分も個人的には古い情報ではないかと推察)

ちなみに呉志の「徐福伝説」は明らかに古い伝説ですが、後漢書に有る徐福伝説は呉志の文章とよく似ているので、呉志から採ったと考えられて来たと思います。しかし、史記漢書にもあり、呉志から採る必要は無いものです。「後漢書魏志三国志)を参照していない」と考えると、東沃沮伝の記述も含めて、全体的な整合性が取れて来ます。

 

それでも、「通説」の呪縛は強いですから、「魏志非依拠」に納得できない方々は多く出てくると思われます。そのような方々に対して、「このような考え方はどうですか?」と示すための図を作成してみました。

下図は魏志倭人伝全体を、A~Fの概略部分に分けてみました(暫定版)。

()内は文字数で合計は1,987文字です。

A(63) :冒頭説明部

B(493):行程及び諸国等説明

C(518):習俗1(特産品など一般的な習俗説明)

D(136):習俗2(税や市、監督、検察、物品の伝送など高度?な習俗説明)

E(175):倭国乱・共立、海外の国々

F(602):魏代の遣使等記録

➡もし、范曄が節略を考えたなら、まずFは完全に魏代情報ですから削除必須。

次にBの行程や諸国説明は、ややこしいので削除とします。

それで、B(493文字)とF(602文字)を削除しただけで計1,095文字削除になり、全体が1,987文字ですから半分を超える節略になります。

実際にも後漢書にBとFはありませんが、それ以外にDもありません。Dは以下です。

<及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣國,國有市,交易有無,使大倭監之。自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。下戶與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬。對應聲曰噫,比如然諾。>

➡これは後漢代原資料に追加した情報と想定しますが、5世紀の范曄が”BとFに挟まれた中でDのブロックは3世紀の魏代情報が集まっている”と見て取って削除したのでしょうか。

しかも、B,D,Fを削除すると残りは756文字で、後漢書は680文字。

B,D,Fをブロックで削除しただけで十分な節略とも見えるのに、A、C、Eからも少しずつ削除されています(水色網掛けの箇所)。

細かく、どこをどのように削除や修整するかは、一つ一つ時代考証も必要になります(魏代情報と混在の可能性があるため)。

更に桂川氏指摘のように殆どの文章の変更や、当方指摘の記述順序の入れ替えなどを行ったことになります。

結局そのようなことを范曄がやったと想定するのは、合理性に欠ける推測になると考えます。

結果的に、范曄は魏志の節略などやっておらず、「魏志依拠」は成立しないと言わざるを得ません。このことを今後どれぐらいの人が分かって頂けるか。

以上