邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B047)「後漢紀」と「後漢書」の比較

後漢紀」と「後漢書」の東夷記述の比較を行ってみましたので比較表を示します。

魏志には比較表の記事に対応する年号入りの記述無し)

結果として、後漢紀」と「後漢書」の記述は基本的に合致しています。

よって、この両書は同一の原史料を参照した可能性が大きくなります。

なお、例えば以下の後漢書記事には「擊高句驪、馬韓、穢貊,破之」となっていて、高句麗以外に「馬韓、穢貊」もあります。

◆孝安帝紀:延光元年(122年)春二月,夫餘王遣子將兵救玄菟,擊高句驪、馬韓、穢貊,破之,遂遣使貢獻。

➡しかし、「後漢紀」で、「馬韓」「穢貊」を検索しても出ません。

これは、「袁宏と范曄が参照した原史料は同一で、それには馬韓、穢貊も有ったが、袁宏は記載するに及ばずと判断して節略した」と個人的に推察しています。

なお、基本的に「後漢紀」の方が節略傾向が強いと感じであり、そのために「倭の57年と107年の遣使」も「後漢紀」には「後漢書」の「本紀」相当の記事しか書かれていないと推測。

また、合致の例として、高句麗で「孝安帝紀:延光元年」の両書記事。
後漢紀:秋七月癸卯京師地震。庚申高句麗王乞降
後漢書:秋七月癸卯京師及郡國十三地震。高句驪降。
➡高句驪王乞降とその時期だけでなく、それとは別の「地震」の記事まで同一で、合致性が高いです。両書が参照した「後漢代原史料」は同一でしょう。

細部の違いに関しては、例えば上記「地震」の記事も、「後漢紀:秋七月癸卯京師地震」と「後漢書:秋七月癸卯京師及郡國十三地震」となっていて、後漢紀の方が節略傾向が強いようなので違いが出ていると想定しています。

なお、後漢紀の方が節略が多い」ということから、「後漢紀を参照しても後漢書は書けない」ことになります。これは両書が参照した「史料の存在に対する最強クラスの論理的証明」になるかもしれません。

以上