更に考察を深化させます。
まず昨日の図を縮小して再掲。
魏志倭人伝の習俗記述部を大きく2分割して次のように推定(「持衰」の前と後)
A:原史料内容(後漢代に得られていた情報...基本的に霊帝頃まで)
B:新規追加情報(魏代の倭や魏の使者等からの新たな情報ではないか)
→B部を更に「ア~エ」に分解します。
→次のように想定。
1)【持衰】より前のA部は、後漢代に得られていた原史料の習俗情報と推測
→後漢書は、ほぼそのまま使ったと想定。
2)魏代の倭や魏の使者等から新たな情報を得られたので、後漢代習俗記述の後に付加したと推測
→陳寿が実施か、或いは陳寿が参照した先行史料の作者が実施と想定。
(この先行史料は、原史料を参照して主に魏代に作成されたものと考える)
3)本来は、新情報が多い「ア」と「ウ」の追加が主目的と推測
→特に「ウ」は租税や諸国の管轄など、高度な社会制度の存在が推察できて、特徴的な情報と想定されます。
4)「イ」は新情報の部分的追加に見えるので、新情報追加前はA部(原史料の情報)に元々あった項目と推測
→しかし、部分的でも追加の新情報があったため、陳寿がまとめてB部に移動させたことを想定。
その際に陳寿が並びや内容にも色々細工したことも想定。
更にA部も「刺青」の記述を重視した並び順や内容の変更などが見えていると思います。
A部とB部の細工が相まって、全体が雑然とした印象になったのではないか。
➡今のところの考察は以上で、「エ」はややこしいので後日考察を書く予定です。
なお、ここまで見た段階でも以下は言えると思っています
◆魏志倭人伝が雑然とした印象なのは、新情報追加時の細工によるところが大きいのではないか
→逆に後漢書は原史料を、そのままに近い形で使ったと想定すると、原史料は後漢朝の史官らが作成して並びも整合性が取れていたと想定して、「原史料に近いのは後漢書」と考える方が辻褄が合うのではないか。
以上