まず趣旨説明のために、後漢書四夷伝(中身は六伝)と魏志の比較表を再掲します。
六伝中の五伝は、魏志を参照しても書けないことが完全に証明されています。
残りの東夷伝において、「倭伝以外の諸国」も魏志依拠でないことを証明すれば、「范曄が全体の約1.3%しかない倭伝だけ、魏志依拠して書いたということは考えられない」ということで「倭伝の魏志非依拠」が証明されると考えています。
但し、倭伝だけでも「鉄鏃の有無」などがあり、魏志非依拠は証明可能なのですが、「魏志依拠の通説」が余りにも強固に蔓延っているので、東夷伝全体からの証明もしておくという趣旨です。
この後に、濊伝の比較検証を行います。
濊伝の比較表を示します。
詳細の違いは多数あるので、幾つかを抽出して記します。
(1) ①②③⑱項に関して
→文言の違いが有ります。
その中で例えば⑱での違い。
◆後漢書:「使來皆獻之」
◆魏志 :「漢桓時獻之」
→一見すると似ていますが、「使節が来るたびに献納」(後漢書)と「桓帝時に献納」(魏志)では大きな違いとも思えて、魏志から後漢書の表現が出て来るとは考えにくい。
(2)④⑤⑨項に関して
◆後漢書:
「傳國至孫右渠。元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東内屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罢。」
「建武六年(30年),省都尉官,遂棄領東地,悉封其渠帥為縣侯,皆歲時朝賀。」
→魏志にはない記述を、范曄は何らかの史料(東観漢記?)から持って来たことになり、魏志依拠は成り立ちません。
また、他の違いとして、後漢書では⑤にある「自单单大領已東,沃沮、濊貊悉屬樂浪。・・・」の文章が、魏志では⑨に有ります。
文章の流れからは、後漢書の位置の方が自然です。
前記事の「挹婁伝」でも、魏志の方が例えば「古之肅慎氏之國也」の位置が不自然でした。これは「陳寿」の発想の特徴とも思えます。
なお、「濊伝」には、まだまだ「魏志非依拠」を思わせる箇所が有りますが、長くなるので今回はここまでにします。
以上