邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B031)東夷伝比較「濊伝」

後漢書魏志東夷伝比較を続けます。

まず趣旨説明のために、後漢書四夷伝(中身は六伝)と魏志の比較表を再掲します。

六伝中の五伝は、魏志を参照しても書けないことが完全に証明されています。

残りの東夷伝において、「倭伝以外の諸国」も魏志依拠でないことを証明すれば、「范曄が全体の約1.3%しかない倭伝だけ、魏志依拠して書いたということは考えられない」ということで「倭伝の魏志非依拠」が証明されると考えています。

但し、倭伝だけでも「鉄鏃の有無」などがあり、魏志非依拠は証明可能なのですが、「魏志依拠の通説」が余りにも強固に蔓延っているので、東夷伝全体からの証明もしておくという趣旨です。

この後に、濊伝の比較検証を行います。

 

濊伝の比較表を示します。

詳細の違いは多数あるので、幾つかを抽出して記します。

(1) ①②③⑱項に関して

→文言の違いが有ります。

その中で例えば⑱での違い。

後漢書:「使來皆獻之」

魏志 :「漢桓時獻之」

→一見すると似ていますが、「使節が来るたびに献納」(後漢書)と「桓帝時に献納」(魏志)では大きな違いとも思えて、魏志から後漢書の表現が出て来るとは考えにくい。

(2)④⑤⑨項に関して

後漢書にあって、魏志に無い文章が有ります。

後漢書

「傳國至孫右渠。元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東内屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罢。」

建武六年(30年),省都尉官,遂棄領東地,悉封其渠帥為縣侯,皆歲時朝賀。」 

魏志にはない記述を、范曄は何らかの史料(東観漢記?)から持って来たことになり、魏志依拠は成り立ちません。

また、他の違いとして、後漢書では⑤にある「自单单大領已東,沃沮、濊貊悉屬樂浪。・・・」の文章が、魏志では⑨に有ります。

文章の流れからは、後漢書の位置の方が自然です。

前記事の「挹婁伝」でも、魏志の方が例えば「古之肅慎氏之國也」の位置が不自然でした。これは「陳寿」の発想の特徴とも思えます。

なお、「濊伝」には、まだまだ「魏志非依拠」を思わせる箇所が有りますが、長くなるので今回はここまでにします。

以上