邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B032)東夷伝比較「沃沮伝」

「沃沮伝」の比較検討で見えたことを以下表を基に説明します。

1.後漢書魏志で位置が違う記述有り(多分陳寿が動かした?)

①産物や性情、言語・食飲・衣服など(高句麗に似ている)

②葬礼

➡位置が離れているが、後漢書の方が自然な並びに見えます。

魏志は無理に動かしたように見えます。

「いつもの」と言いたくなるぐらいの「陳寿改作」の特徴が、ここでも出ていると思えます。

ところが、次項は陳寿の更なる特徴と言えるかも知れない話です。

2.陳寿(或いは陳寿が元にした史料の作者)が話を作っている可能性

先ず、B・C・Dは「北沃沮」の一般的説明で出て来ると思われる内容です。

B:北沃沮の地理的説明

C:隣国の挹婁の脅威による影響

E:当地の古老が語る伝説的な話

それに対して、

A:「毌丘倹」の高句麗討伐で王の「位宮」が北沃沮に逃走した

D:「王頎」は位宮の追討に派遣され東界の端に行き、そこの長老に質問した

後漢書は「B・C・Dのみ」で、これが原史料の姿と想定。

一方で、陳寿意図は以下と推察。

(1)AとDの追加で「毌丘倹」と「王頎」の活躍という魏の功績をここでも顕彰

(2)AとDを古老が語る伝説Eの前段にして、いわば箔を付けて盛り上げた

➡これが「陳寿が話を作っている」という趣旨です。

内容的にも、伝説によくある「荒唐無稽な怪奇譚」の類と思われ、「王頎」という高位の官職の人物がわざわざ聞く話でも有りません。

また、東方海上の「倭」から遣使も来ている状況で、「東方の不思議な国」の話などしても「それは倭でしょう」で終わってしまいます。

結果的に重要になって来るのが、「陳寿は(実態と違っても自分が良かれと思えば)話を作ることがある」という手法です。

魏志倭人伝」を見る場合も「陳寿の創作」がある可能性を考慮しないと惑わされそうです。

しかし、そうなると「古田武彦」氏のような「倭人伝記述絶対主義」でなくても、倭人伝を概ね信頼して長く検討して来た内容を見直す必要がある場合が出てくると思われます。

影響は大きそうです。

ただし、影響が大き過ぎて、「魏志非依拠」という真相はスルーして、「通説のままで押し通そう」とする向きの方が多くなりそうな気はします><

 

なお、「太平廣記」所引きの「博物誌」(作者:張華)の沃沮伝に以下の様に有ります(原文は下図参照)

毋丘儉遣王傾追高麗王官。明鈔本無「官」字,按《博物志》「官」作「宮」。盡沃沮東東界。問其耆老,海東有人不。耆老言。國人嘗乘船捕魚,遭風,見吹數十日,東得一島。上有人,言語不相曉。其俗嘗以七月,取童女沉海。又言有一國,亦在海中,純女無男
又說,得一布衣,從海中浮出,其身如中人衣,其兩袖長二丈。「丈」原作「尺」,據明鈔本改。又得一破船,隨浪出,在海岸邊。有一人,項中復有面。生得「得」原作「的」,據明鈔本改。之,與語不相通,不食而死。其地皆在沃沮東大海中。出《博物志》>

陳寿はこれから引用した可能性は充分有り得て、その場合は「毋丘儉遣王傾追高麗王官」も入っていますが、これは「張華」に依ることになります。

しかし、「怪奇伝説」の類を「王頎」という高官が聞いて記録したとは考えられず、「張華」が話を作った可能性が出て来ます。

 

以上