邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B097) 魏志東夷伝の序文について

前記事の表を見直して、再作成。

赤字の箇所は、後漢書に無い文言(B,D,Fのブロック単位で無い文言は除く)。

→こうやって見ると、魏志を節略して後漢書にしたというより、後漢代の原史料に後代で得られた情報が魏志(や魏志が参照した魏代史書)で追加されたと見る方が、妥当な気が更にしてきます。

それで後漢代の原史料に忠実なのは後漢書の方と想定すると、当然ではありますが”後漢書の情報は既に後漢代に得られていた”ことになります(57年107年遣使等も含む)。

そこで課題になって来るのが魏志東夷伝序文。

陳寿は、魏の功績顕彰のためと推測しますが、公孫氏の情報遮断と、それの打破の強調で、後漢代には情報が得られていなかったように書いて、”話を盛っている”としか見えません(以下の赤字部分)。

そうなってくると、やはり陳寿の文章はあてにならない部分があることになります。加えて、陳寿はそういう傾向がある人物との見方も必要になるでしょう。

しかし、魏志が全面的に信頼できると考えたい向きからは、相当な反発が出そうな見方になって来ます。

[魏志 東夷伝序文]

稱「東漸于海,西被于流沙」。其九服之制,可得而言也。然荒域之外,重譯而至,非足跡車軌所及,未有知其國俗殊方者也。自虞曁周,西戎有白環之獻,東夷有肅慎之貢,皆曠世而至,其遐遠也如此。及漢氏遣張騫使西域,窮河源,經歷諸國,遂置都護以總領之,然後西域之事具存,故史官得詳載焉。魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于寘、康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不奉朝貢,略如漢氏故事。公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉

以上