邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B116) 博物志との比較で見えた魏志の沃沮伝説記述における誤解の発生

魏志の沃沮伝で、以下のように「毌丘儉」の遠征を書いた記事が有ります(改行と番号付与は当方)。

毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?

耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。

又言有一國亦在海中,純女無男。

又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。

得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

➡この魏志での分類①~④を基に、博物志・魏志後漢書の三書での比較を下表に示します(三書の当該部分は後方に引用記載

➡比較で見えて来たことを列挙。

1.博物志と魏志は①~④が揃っていて記述内容もほぼ同じです。

 →博物志の著者は陳寿を引き立てたとされる張華です。魏志が博物志を参照した可能性はありそうです。

2.①は 毋丘儉の追討で派遣された王頎が沃沮の古老から聞いた話として書かれています。

 →しかし、博物志では②③④と①は離れた位置に記述(後掲の当該部分参照)。

  一方で魏志は①②③④が並べて記述されているので、①だけでなく②③④も王頎が聞いた話のように誤解されてしまいます。しかし、博物志では違っているのです。

3.結果的に①だけが王頎が聞いた話になり、魏代のことになります。

 →後漢書に①がないのは、①は後漢代の情報では無いので妥当になります。

4.もし後漢書魏志を参照して書かれたとすれば、魏志を見て①だけは王頎が聞いた話と見抜いて、魏代なので削除したことになります。或いは范曄は魏志だけでなく博物志も参照して、①は時代が違うとして書かなかった???

 →沃沮は東夷伝の中でもマイナーと思われ、そのような国に5世紀の范曄が細かく手間暇かけるのは有り得ないでしょう。

5.魏志を見ると、前述のように①~④の全体が王頎が聞いた話に見えて、その中で②~④が後漢書に有ることで、「後漢書には魏代の情報が有る⇒魏代史書を参照した⇒魏志参照」の論法で、「魏志依拠」を主張する説の方がおられます。

 →今回の比較で①だけが魏代情報とすると、後漢書には①が無いことは、後漢書に魏代情報が有るという主張に対して否定根拠になります。

なお、「王頎」(或いはその部下)が聞いたという形になっている①も、内容が古伝説の類の話なので、そもそも毌丘儉の遠征と本当に関係があるのか?という疑問も個人的に有ります。(但し、①と②③④は、古伝説でも微妙にニュアンスが違うようにも感じますが、その説明は難しい)

また、追記に参考として載せたブログに有るように、「博物志は逸文集で、逸文の集め方も杜撰」らしいので、その面からの吟味も必要になるかも知れません。(博物志逸文は「中国哲学書電子化計画」を参照しました)

 

-----三書の沃沮伝説の記述-----

博物志 《卷二》

22 有一國亦在海中,純女無男。
說得一布衣,從海浮出,其身如中國人,衣兩袖,長二丈多分三丈が正
得一破船隨波出,在海岸邊,有一人,項中復有面。生得與語,不相通,不食而死。其地皆在沃沮東大海中。

・・・(④と①の間が離れている⇒毋丘儉遠征での王頎情報は次の①のみと推察

31 毋丘儉遣王領追高句麗王宮,盡沃沮東界。
問其耆老,言國人常乘船捕魚,遭風吹數十日,東得一島,上有人言,語不相曉,其俗常以七夕取童女沉海。

 

魏志 東沃沮伝
毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?
耆老言①國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。
有一國亦在海中,純女無男。

說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。
得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

 

後漢書
又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。
其耆老言,②嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。
於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。
又①說海中有女國,無男人。

或傳其國有神井,闚之輒生子云。

後漢書では④がありません。

その上で、他二書では、①②③の並びですが、後漢書では②③①という違いもあります。理由は未把握です。

なお、後漢書の最後には他二書には無い「或傳其國有神井,闚之輒生子云」が付いていますが、これの考察は今は行いません。

以上

[追記]

博物志と魏志を比較したブログが有ったので、中身は未検討のままメモとして、参考に記載しておきます(次記事で検討することにします)。

張華『博物志』と陳寿『三国志』における文章合致

『博物志』は一度散逸しており、現行の物は類書などから佚文を集め直したものらしいのです。ツイッターで教えていただきました。しかもその集め方が結構ずさんなのだとか・・・。*1
 となると、現行の『博物志』の文章を『三国志』と比較してもあんまり意味ないです。
 実際、上記で引用した段落Aと段落Bをそれぞれ見てみますと、どうやらこれらも佚文を改変した上で収めた物のようです。どうも、段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます。

追記以上