邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B117) 博物志との比較で見えた魏志の沃沮伝説記述における誤解の発生(続)

前記事の[追記]に記載したブログ「三国与太噺 season3」の考察が優れていると感じたので、詳細を見てみました。(「与太噺」と謙遜しておられますが、かっちりした構成になっています)

 張華『博物志』と陳寿『三国志』における文章合致 

(引用している博物志の)段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます

→この推測は正しいと感じます。

そして段落Bに以下のように「毋丘儉遣王頎追高句麗王宮」が入っています。

毋丘儉遣王頎追高句麗王宮、盡沃沮東界。問其耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七夕取童女海>

→この段落Bだけが「王頎」が聞いた話という位置づけと思えます。

そして、魏志では先に段落Bが記載されていて、続いて以下の段落Aが記載されています。

<有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長二丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其地皆在沃沮東大海中。>

→この段落Aの多くは「王頎」が聞いた話とは別に得られていた沃沮の伝説と推察します(後述)。

結果的にhyenaさんの見立て「伝説に王頎が聞いたという話追加」の蓋然性が高いと感じます。

つまり、王頎(や部下ら)が「又」でつないで複数ある伝説を全部採取したと考えるのは蓋然性が低いと思えます(彼らは遠征軍であって、博物調査隊ではない)。

なお、魏志では以下のように段落Aと段落Bが一続きになっていますが、その中で「」で始まる話と、「說(得)」で始まる話が有ります。これは「言」の方が「王頎の問いに答えた」という意味になるのではないかと考えてみています。そして博物誌の中の「説(得)」で始まる話は、旧来の古伝説ではないか。
但しこの分類の明快な証明は難しいですが、文言の違いが有るのは事実で、その違いに何か意味が有ることは考えられるのではないかと思います。

魏志毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、……王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七月取童女海。
 又有一國亦在海中、純女無男。又一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長三丈。又一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

→このようなことをブログを見て考えたので、メモとして残します。

また、今回の「三国与太噺 」さんブログ考察はここまでにしますが、同ブログの別記事には以下も有ります。

張華『博物志』の佚文「沃沮の女國」

<『三国志』との比較のため、『博物志』原型の文章を探さないとなーって思っていましたが、果たしてそれらしいものが『太平廣記』四百八十巻蛮夷にありました>

→いずれにせよ前述のように、「複数記述されている沃沮の伝説が、全部王頎が聞いた話ではない」という分析を考慮することは重要と思います。

 

なお、本記事の[追記1]では、後漢書との「復有面」の位置の違いを少し取り上げていますので、興味ある方はご覧下さい。

 

-----ブログ引用開始-----

三国志東夷伝東沃沮
 毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、……王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七月取童女海。
 又言有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

『博物志』卷二、異人(A段落)
 有一國在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長二丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

『博物志』卷二、異俗(B段落)
 毋丘儉遣王頎追高句麗王宮、盡沃沮東界。問其耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七夕取童女海。

 両者を比較し、字句が異なる箇所は赤字に、一方にしかない字句には青字にしてみましたが、極めて文章が近しいことがわかります。

 これは『三国志』が『博物志』を参照したがために起こったことなのでしょうか?
それとも『博物志』が『三国志』を参照したのでしょうか?
 はたまた、『三国志』『博物志』は親子の関係ではなく、とある資料を共通して参照していた兄弟関係にあるのでしょうか?
 なぞです。

 となると、現行の『博物志』の文章を『三国志』と比較してもあんまり意味ないです。
 実際、上記で引用した段落Aと段落Bをそれぞれ見てみますと、どうやらこれらも佚文を改変した上で収めた物のようです。どうも、段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます。

 まずA段落冒頭「有一國亦在海中、純女無男。」にある「」です。現行『博物志』でこの文章の周辺を参照しても、この「亦」が受けているような内容は見当たりません。なのでA段落の前には本来何らかの文章があったのではないでしょうか。

 同じくA段落の最後「其地皆在沃沮東大海中。」の「其地皆」ですが、A段落において説明されている土地は女國のみであり、「皆」という語を用いるのは不自然に感じます。 

 またB段落「問其耆老言、」という文辞もいささか変ではないでしょうか。「その耆老に問い(耆老が)言うならく」とでも書き下すのでしょうが、しかし「言」の主語がやや迷子です。本来あったはずの語を削った為にこうなったのではないでしょうか?なお『三国志』の同じ個所が「問其耆老「海東復有人不?」耆老言、」とするのは自然に読めます。
 
 以上の理由から、おそらく原型は『三国志』のそれに近いもので、現行『博物志』は佚文を拾ったために、二つの別々の段落に分かれてしまったのでしょう。
 では現行『博物志』はこの佚文をどこから拾ってきたのでしょう?『御覧』あたりでしょうか?

-----ブログ引用終了-----

以上

[追記]

博物誌・魏志「項中復有面」

後漢書   「頂中復有面」

➡もう一つの顔のある位置が、「項(うなじ)」と「頂((頭のてっぺん))」の違いが有ります(意味は「漢字ペディア」参照)。

どちらが正しいかは微妙で、今のところは判定が難しいです。

追記以上