邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B095) 陳寿の追加箇所の推測

前記事で徐福伝説について、後漢書と呉志(三国志)に同じような記述があることを詳細に検討。

それに関してhyenaさんより以下の示唆を頂きました。

<この徐福伝説みたいなケースは東夷の他伝にはありませんでしたか?つまり同じ説話がブロック単位で范書・陳書にいずれにも引かれているという>

→まさにピタリの示唆で、「東沃沮伝」では東方海の伝説が両書に記載。 比較を下方に示しますが、魏志は「毌丘倹」が派遣した「玄菟太守王頎」らの遠征時に古老に聞いた話としています。 そのため魏代の話であり、それが後漢書にあることは、”後漢書に魏代の話も入っている証拠」とする説を唱える方もおられます。

しかし、「うなじの中にまた顔があった(項中復有面)」など荒唐無稽な奇譚伝説的要素が強い話であり、魏代とは想定し難く辻褄が合わないままでした。 しかも毌丘倹の遠征は卑弥呼の初遣使の後であり、沃沮の東方海上には倭が存在すると明確に分った後では、もはや意味を持たない話になっていました。

それに対して、陳寿は”呉志で古い徐福伝説を挟み込んだ”とすれば、沃沮でも同手法で(後漢書にある)古い伝説の挿入を行った可能性が考えられそうです。

結果的に、前述の説とは逆に、”後漢書に魏代の話は入っていない”という可能性が更に高くなります。

 

さて、他にも当方で「陳寿が追加したのではないか」と推測している箇所があります。その一例として魏志卑弥呼共立の記述の中に含まれる「有男弟佐治國」があります。

これに対して、「後漢書には魏代情報は入っていない」と考えると、後漢書にない情報は陳寿(或いは陳寿が参照した魏代史料の作者)による追加と想定することができます。

→共立から近い時期に既に「有男弟佐治國」では、男弟が実質政治のトップになったことが想定されてしまうので、宗教的存在(卑弥呼)を立てて、政治は共立を決めた各部族の長老らの合議で行ったと考えるのが自然という当方推測と合致しないからです。そして共立から時間を経てから、卑弥呼の権威の更なる高まりにつれて、側近の男弟の政治的地位が上がって行ったのが「有男弟佐治國」ではないか。

経過はこのように推測しているのですが、文章読解面からも”「有男弟佐治國」が後から追加された証拠”になると思える論点を見つけました。

それは「自爲王以來」も追加されていることです。「自爲王以來」がなくて、「有男弟佐治國」だけの追加だと、以下のように文章のつながりが変わって来ます。

 有男弟佐治国(追加)

 少有見者

➡これだと「少有見者」なのは、「卑弥呼か男弟か」が分りにくくなります。更に、どちらかと言えば、直前の「男弟」の方が「少有見者」になるのが普通の文章のつながりです。

そのため、「自爲王以來」も追加して、「王」である卑弥呼が「少有見者」であることを文章のつながりとしても明確にしようとしたのが以下と推測。

 有男弟佐治国(追加)

 自爲王以來(同)

 少有見者

➡しかし、このようにすると「乃共立一女子爲王」と「自爲王以來」で、さほど長くない文脈の中で「爲王」が2回出て来ます。文章を書くのを生業にしている人は、このようなことは普通はやらないでしょう。

しかし、「有男弟佐治国」を後から追加するという無理をしたために、「爲王」が重なることになっても「自爲王以來」も追加することにしたと推察します。(今は仮説です)

以上