邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B093)桂川氏見解検討8「倭国乱とその後の時期」について

前記事で、桂川氏著書の以下見解を紹介。

<『梁書』が、何の根拠もなくこの記述を成したとも思われないので、倭国乱とはおおよそ二世紀の後半、中ごろに起きた王位をめぐる内乱である

→前記事の表の両側に、「時代」を追加してみました。

倭国(大)乱と、それを終わらせた卑弥呼共立は、光和年間(178年 - 184年)頃の2世紀末と考えると、表の「A」と「B」はいつ頃なのか?

→個人的には後漢書基準で考えていて、後漢書の記述は(1)を除いた(2)~(13)は2世紀末頃までの状況と想定して、Bもその中に含まれると考えていました。

そして、魏志も内容が類似なので、魏志の方も②~⑫は2世紀末頃までの状況と想定していました。

それに対して、「⑥年已長大,無夫婿」は「年すでに長大」と読んで、⑥は魏代と見る論者もいます。wiki卑弥呼」の例を以下に示します。
<既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどするとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)>

→当方も、「⑥年已長大,無夫婿」と「(4)年長不嫁」は、表現が違いから同じ意味では無いだろうと考えていましたが、それだと⑥と(4)は違う時期の話と考えて辻褄は合って来ます。

結局のところは、どう考えれば良いか、ややこしい状態でしたが、今回上掲表を作成してみて気付いたことがありました。表の中にも書き込みましたが、⑥は③の共立の後に記述されています。それに対して、(4)の記述位置は(6)の共立の前になっています。

厳密に文章を読解すれば、⑥は共立の後にあるので、共立後の時代とすれば、魏代と考えることも出来るでしょう。

一方で、(4)は共立の前に有るので、共立の後の時代とは考えにくくなります。

➡「魏志依拠」の通説に立てば、このようなややこしい箇所は、最終的には「魏志優先」で考えてしまうことが出来ました。

しかし、「魏志非依拠」だと、魏志後漢書をそれぞれ独立的に吟味する必要が出て来ます。

ということで、当方もまだ考えがまとまっていないので、本記事ではここまでとします。

更に以下のような課題もあると考えています。

■「公孫氏による情報遮断」を考慮すると、上掲表の情報はいつ頃中国に伝わったと考えるべきか?

■「倭の使者や魏の使者」から魏朝側が得た情報は、上掲表の記述に含まれているのか?含まれているとしたらどの部分か?などの切り分けも必要

以上

 

 

 

 

 

公孫氏