邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B045)「夫餘」伝の両書比較

「夫餘」両書比較表

◆右側の後漢書で、「魏志に無い年号入り記述」(橙色網掛け)が多数あることが改めて見て取れました

◆今回新たな発見・・・夫餘の王統譜(後掲の資料で詳説)

①永初五年(111年),夫餘王將步騎七八千人寇抄樂浪,(後漢書
②永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台詣阙貢獻,(後漢書
③永康元年(167年),夫台將二萬餘人寇玄菟,(後漢書
④漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。(魏志

 

こんな資料が有りました

国立歴史民俗博物館研究報告 第 151 集 2009 年 3 月

魏志東夷伝訳註初稿 (1) 田中俊明 

https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1719&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

①~④は当方付与。

ポイントと思えるのは、上表で「”尉仇台”が②(後漢書)と④(魏志)の2カ所に出ている」ことに関してです。

②は永寧元年(120年)、④は漢末と記述時期が離れています。

田中氏は以下のように、<同一人物であるとみるのは難しいしています。

この見方が正しいとすると、「魏志後漢書で別の”尉仇台”が記述されている」ことになります。

詳細は今後調査したいと思いますが、少なくとも「後漢書魏志に非依拠」の重要証拠がまた見つかったように思えています。

[註解](14)王
夫餘の王で最初に登場するのは、『後漢書』夫餘伝にみえる、建武二五年(四九)の「夫餘王」であるが、名は不詳である。永初五年(一一一)にも「夫餘王」がみえる。ここでは、「夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪......」とあり、①王の名を「始」と記しているようにみえる。ただし、先の建武二五年以来「使命歳ごとに通じ、安帝の永初五年に至りて」につづく一文であり、毎年、使者が通じていたのに、ここに至って、「始めて」寇鈔した、というように、「始めて」と理解することも可能である。

『通典』卷一八五・邊防門東夷・夫餘では、「永和の初め、其の王始、來朝す」とあり、王の名らしく読める。これのみであれば、「始めて」でもよいが、さらに後文には「其の王始死し、子の尉仇台立つ」とあり、こちらは明らかに名としている。このような『通典』の記事が、独自の材料をもって記されたものか、あるいは『後漢書』の先の記事を、そのように理解したにすぎないものか、即断はできないが、おそらくは後者であろう。したがって、「始」が王名であるのか、「始めて」という意味であるのか、なおよくわからない。

後漢書』では、つづいて永寧元年(一二〇)に、②「嗣子尉仇台」がみえる。その「嗣子」という語は、前王の「嗣子」として、前王が特定されるかたちであらわれていることを前にしているようにみえる。つまり、すでに「始」という王を記しており、それを前提にして、その「嗣子」であることを示した、とみることができるという意味である。ただしそれでも、前に王がいて、その「嗣子」であることのみがわかっているので、「嗣子」と記した、ということであってもよい。①結局、「始」が王名であるのか、一般用語であるのか、確定することができない。
永和元年(一三六)にも「其の王」がみえる。これが「尉仇台」であるかどうかは、わからない。永康元年(一六七)にはじめて③「王夫台と、王名が確認できる。魏志』の後文では、公孫度が勢力をもった時期(一九〇年以後)に「夫餘王尉仇台」がみえるが、先の「嗣子尉仇台」とは、年代が離れており、同一人物であるとみるのは難しい。そのあと「簡位居」「孽子麻余」「其の子依慮」とつづく。

当方補足:②と④の「尉仇台」は、年代が離れているだけでなく、間に③の「夫台」という別の王が入っているため、同一人物では有り得ないことになります。なお、「尉仇台」が同名の可能性も有るかも知れませんが、それでも人物としては別になります

・・・

このように、夫餘王は、後漢代以後、五世紀末の滅亡に至るまで、断片的に記録に現れる。このうち、父子関係が明確であるのは簡位居と麻余、 その子依慮の場合のみで、 麻余は、 簡位居に嫡子がいなかったので、孽子ながら諸加に共立されるかたちで即位したのであった。それ以外については、父子相続で続いてきたのか、また王系の断絶がないのか、詳細は不明であるが、基本的には父子相続であったとみてさしつかえない。

 

以上