邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B041)「大乱と卑弥呼共立」検証1

習俗記事に続いて「大乱と卑弥呼共立」記事についても分析してみました。

まず魏志の習俗記述で、「持衰」を境に、A(後漢代原史料)とB(魏代追加)に分かれるのではないか、という当方推測を見易くした図を再掲します。

習俗の後に有る「(大)乱と卑弥呼共立」の記述も、魏志後漢書の比較を行ってみました、

比較からの考察が複雑になるので、今回は気が付いたことを、メモを兼ねて思いつくままに書いておきます。


後漢書に無くて魏志に有る項目が「aとb」。

 逆に、魏志に無くて後漢書に有るのが「c」。

→両書の各項目で語句の違いが多く対応も複雑化しますが「全く対応していない」のが「a、b、c」という趣旨です

aとbの重要度が高いと想定して、この2項目について考察してみます

→cは、文脈的に「突然出て来ている印象」が個人的に有るので重要度を下げました

a「有男弟佐治國」は、深読みすると、「祭(卑弥呼)政(男弟)分離」が見えて来ます。

→これは統治形態として有りうる話になります。

ただし、問題は「共立当初の体制は、男弟ではなく、共立を主導した国々(部族)の有力者による合議制での統治が自然ではないか」と思います。

というのは、卑弥呼の直系である男弟が政治面をつかさどったのでは、権力が一つの部族に集中する形になって共立の意味がなくなるからです。

特に共立当初は、前述のように、共立の取りまとめを行った有力者の間から選ばれた人(長老?)が政治を担ったのではないかと推察。

その体制が或る程度続いた後に、段々卑弥呼に近い人に権力が集まって行って、「男弟佐治國」の体制になったのではないか。

もちろん権力の変遷自体は複雑だったと思いますが、これで言いたいのは「男弟佐治國は共立当初の体制ではない」ということです。

これは確実でしょう。

結果的に、「aが有る魏志は、共立から時間が経った後の状況」を書いているのではないか。

一方で、「aが無い後漢書は、桓霊間の大乱が終わって、卑弥呼が共立された頃か、余り時間が経っていない頃の状況」ではないか

後漢書の記述は殆どが「霊帝の頃」までです。

それ以降の情報は無い状態で後漢代原史料が出来て上がっていて、范曄がそれを参照したから、このようになったのではないか。

魏志に戻ると、陳寿陳寿が参照した魏代原資料(仮称)の作者らが、「男弟佐治國」の状況になっている情報を得て、aを追加したのではないか

→それに加えて、c「自爲王以來」という時間の経過を示す文も追加されたのではないか。

結果的に、習俗記事と同様に、「(大)乱と卑弥呼共立」も原史料に対して魏代に追加された部分が有るのではないか

→この場合に注意点としては、都の描写などが後漢代か魏代か?ということです(卑弥呼居所の描写を都の描写と想定してみる)。

後漢書も同様記述なので「後漢代原史料に有った描写」というのが当方推測です。

魏志 :居處宮室樓觀城柵嚴設,常有人持兵守衛。

後漢書:居處宫室楼观城栅,皆持兵守衛。

一方で、共立が西暦180年頃とすると、魏の使者「梯儁」が倭に派遣されたのが240年として、約60年経過

→それだけの時間が経って、共立で国が大きく変化して行く中では、都の状況に余り変化が無いということは有り得ないでしょう。

しかし、魏志後漢書で都の描写に差が見られないのは、(本来は考えにくいことですが)「魏の使者の報告は魏志で使われていない」ということかも???

(魏の使者が都に行ったかどうか?の論議も有りますが、先ずは「行ったと仮定」しての疑問です)

 

➡「後漢代原史料」という考えを入れると、邪馬台国論議が大きく変動するのは確実で、結果的に抵抗が大きくなりそう><

以上