邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B094) 呉志の徐福伝説

徐福伝説について、後漢書魏志に同じような記述があるので比較表作成。

→まず①の「東鯷人」は、後漢書が”『漢書』地理志第八下/呉地”の記述を引用は確実。

<會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云>

 

続いて、④~⑬の徐福伝説関連記述は、呉志の(1)~(13)とよく一致 ( (7)だけ無い)。

ただ、呉志をよく見ると、(2)(3)(14)(15)は徐福伝説とは関係なしと見えます。

これを考えてみると、以下が呉志の元の並びではないか。

(2)求夷洲及亶洲。亶洲在海中,
(3)遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海
(14)但得夷洲數千人還。
(15)黃龍三年春二月,衞溫、諸葛直皆以違詔無功,下獄誅。

➡結果的に、本来の「呉志」の記述は(2)(3)(14)(15)で、”230年将軍らが海外に派遣されたが、それに見合う成果が得られず罰せられた」という話ではないか。

つまり徐福伝説は入っていなかったのを、興味深い話は入れておこうということで、以下のように入れ込んだのではないか。

→私的推測としては以下が行われたのではないか。

後漢代にまとめられた徐福伝説の記述が、范曄が参照した後漢代原史料の倭伝に入っていて、范曄はそれを引用したのではないか(東鯷人も込み)。

一方、陳寿も范曄と同じ徐福伝説の記述を見たが、呉志の方にたまたま海外派遣の記述が有ったので、そこに入れ込んだのではないか。(魏代に倭の情報が入って神秘性は薄れ、徐福伝説と結びつけるのをやめた可能性→代わりに夷州・亶洲と関連させる趣旨で呉志に入れたのでは)

➡これは范曄と陳寿が同様史料を見て、両書の時代に合わせて書き方が変わったことが想定される以下と同じ構図かも知れません。

後漢書倭伝:57年107年遣使記述

魏志倭人伝:「漢時有朝見者」

 

➡結果的に本記事における「呉志は”将軍らの海外派遣の記述”の間に、徐福伝説を差し込んだのではないか」という推察は、「後漢書は魏代史料(魏志や呉志)を参照していない」という推測を補強することが出来たかも知れません。

以上

[補足]

以前に以下のブログを書いていました。

(B004)後漢書は魏志の要約ではない証明4「漢書地理志」 2022-05-02

<「使者らが3世紀の倭の状況を実際に見てきた後では、紀元前で気候風土も違う粤地の習俗記述は下敷きにもならない」と思われ、実際に倭の地で見聞した体験を新たに報告すると推測するのは自然でしょう。

もし、その報告を基にして陳寿が書いていたら、3世紀の倭の習俗と紀元前の海南島のそれとは大きく違うことは当然ですから、漢書地理志の記述と、このように似て来ることは考えにくい。

一方范曄は短期間で後漢書を編纂していることも有り、余り考えずに、当時は見ることが出来た後漢代の史料(衆家後漢書?)を殆どそのままで使用したのではないか?
結果的に以下のように推測。

漢書地理志をベースにして(多分)後漢代に書かれた倭の史料が有って、范曄はそれを(多分)殆どそのまま元にして後漢書倭伝にしたのではないか。

一方陳寿は范曄が使った資料か、それと同じような内容の資料を見て、魏代用に(若干)時代修整して魏志倭人伝の習俗記事などにしたのではないか(行程記事などは別の史料参照と想定)。>

→赤太字にした部分の推測は、本記事の「徐福伝説」にも当てはまりそうです。

補足以上