邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究している(ペンネーム)湖台志郎です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B004)後漢書は魏志の要約ではない証明4「漢書地理志」

これまでの証明1~3で「『要約ではない』の完全証明が達成出来た」と考えています。

簡単な図にしてみましたが、魏志に含まれない記述が後漢書に多数あり、これを「要約」とは呼べないことは明らかです。

 

しかし、今までの通説とは真逆になるので、認識し易くするために更に証明を行います。

”証明1「鉄鏃」”では、「漢書地理志粤地」の記述を使用しました。

それが入っている「漢書地理志下」の全体を本場中国のサイトで見てみます。


倭関連を見てみます。(段落番号はこのサイトが独自に付与していると思われます)

有名な「楽浪海中に倭人有り」の文言が段落103にあります。

103 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。

 

後漢書倭伝の終わりにある「會稽海外有東鳀人,分為二十餘國」はここにあります。

132 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云。

→”魏志倭人伝には無い文言”であり、これも「要約ではない」の明確な証明になります。

 

粤地(海南島を含む中国南部)の記述

魏志倭人伝に「夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害」がありますが、それと同趣旨の内容がここにあります。

133 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
粵地,牽牛、婺女之分野也。今之蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、南海、日南,皆粵分也。
134 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與吳王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐吳,吳大破之,棲會稽,臣服請平。後用范蠡、大夫種計,遂伐滅吳,兼并其地。度淮與齊、晉諸侯會,致貢於周。周元王使使賜命為伯,諸侯畢賀。後五世為楚所滅,子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢興,復立搖為越王。是時,秦南海尉趙佗亦自王,傳國至武帝時,盡滅以為郡云。
→これは「後漢書倭伝」には有りません。

後漢書倭伝と魏志倭人伝の「倭の習俗」を書いている部分(両書の添付は長くなるため省略)は以下の赤字部分とよく似ています。

136 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。自初為郡縣,吏卒中國人多侵陵之,故率數歲壹反。元帝時,遂罷棄之。

⇒しかし、もしこの記述がベースなら、魏志倭人伝の記述が(唱える人が多い)「魏の使者や張政らの報告書をベースにしているという説」との整合性はどうなるか?

これを考えてみると、「使者らが3世紀の倭の状況を実際に見てきた後では、紀元前で気候風土も違う粤地の習俗記述は下敷きにもならない」と思われ、実際に倭の地で見聞した体験を新たに報告すると推測するのは自然でしょう。

もし、その報告を基にして陳寿が書いていたら、3世紀の倭の習俗と紀元前の海南島のそれとは大きく違うことは当然ですから、漢書地理志の記述と、このように似て来ることは考えにくい。

一方范曄は短期間で後漢書を編纂していることも有り、余り考えずに、当時は見ることが出来た後漢代の史料(衆家後漢書?)を殆どそのままで使用したのではないか?

結果的に以下のように推測。

漢書地理志をベースにして(多分)後漢代に書かれた倭の史料が有って、范曄はそれを(多分)殆どそのまま元にして後漢書倭伝にしたのではないか。

一方陳寿は范曄が使った資料か、それと同じような内容の資料を見て、魏代用に(若干)時代修整して魏志倭人伝の習俗記事などにしたのではないか(行程記事などは別の史料参照と想定)。

以上

[補足]

なお地理志の中でも以下の二つは対をなして書かれています。

漢書地理志、燕地「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云」

漢書地理志、呉地「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云」

⇒参考として、これに関して以下のような見方を述べているブログが有りました。

漢書を編纂した1世紀には、東鯷人が前漢呉地・会稽郡と、倭人のほうは燕地・楽浪郡と関わっていることがわかっていたけれど、この二つは同じ民族ではないかと思われたので、あえて対をなす記述として残し、答えは後代に任せたということだと思われます。そして後漢書では(東鯷人は)「倭」の中に組み入れられたと。>

SOMoSOMo (hateblo.jp) ”東鯷人のゆくえ”

補足以上