邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B114) 通説な方々たち(2)「渡邉義浩」氏

◆渡邉義浩氏も著書で明確に「魏志依拠説」を表明している箇所が複数ありました。

①「魏志倭人伝の謎を解く」渡邉義浩

---「附章 魏志倭人伝 訳注」抜粋引用---

(5)投馬国・邪馬台国

(補注)

(一)『三國志』の諸版本は「」とするが、三國志』を参照して東夷伝を著した『後漢書などは「」とする。・・・。

---引用終了---

「原文」

②「全譯後漢書渡邉義浩 主編

②-1

---引用---

P392(補注)

(一)樂浪は、郡。後漢書』の韓傳は、『三國志』の韓傳に依拠しながら、一部を萢嘩が改めたと考えられている三國志』では、ここは帯方郡である。

---引用終了---

「原文」

 

②-2

---引用---

P393(補注)

(一)引用部分は、『三國志』巻三十東夷傳に、「諸國各有別邑、各之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼紳。諸亡逃至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠」とあり、節略されている。
後漢書三国志の節略と言っている

---引用終了---

「原文」

以上

[追記]

微妙な記述もあります。

②「全譯後漢書渡邉義浩 主編 より

---引用---

P399(補注)

(二)漢書』巻二十八上地理志上磐地の條に、「武帯の元封元年、略して以て循耳・珠現郡と爲す。民は皆布を服すること軍被の如く、中央を穿ちて貫頭と爲す」とある。邪馬臺國の記述が、『漢書』に多く依拠することも、渡邊義浩『三國志よりみた邪馬臺國』(前掲)を参照。

---引用終了---

➡「後漢書魏志』参照ではない部分は、『漢書』等の更に古い史書を参照」という見解は他でも見ます。

この見解にすると、”後漢代原史料」を参照したのではない”と言うことが出来て、「後漢代原史料があった」という「魏志非依拠」説の否定の論拠になります。

しかし、范曄は「衆家後漢書」を参照したと中国史書に書かれており、三国志だけでなく漢書等の古い史料のことも書かれていません。

一見して漢書に似ている部分は、「衆家後漢書」がそうなっていたのを范曄が参照したと考える方が妥当で、范曄が直接に漢書まで調べて参照したと見るのは考え過ぎでは。

 

③論文「『三國志』東夷傳 倭人の条に現れた世界観と国際関係渡邉義浩 より

---引用---

中華のまわりに北狄・南蟹・西戒・東夷の四夷が居る、という儒教中華思想を表現するためには、正史は北狄・南蟹・西戎・東夷の四夷傳をすべて備える必要がある。事実、『後漢書』は、四夷傳をすべて充足している。これに対して、『三國志』は、「倭人の条」を含む巻三十烏桓鮮卑・東夷傳が、唯一の夷狄傳である。烏桓鮮卑は、北狄にあたる。南には、孫呉、あるいは蜀漢が存在するため、南蜜傳を欠くことはやむを得ない。問題は、西戎(あるいは西域)伝が無いことにある。

---引用終了---

後漢書に四夷伝が有って、一方で三国志には「烏桓鮮卑東夷伝」だけであることを渡邊氏は認識している。「『三国志』を参照して東夷伝を著した『後漢書』」という上記①「魏志倭人伝の謎を解く」の見解は、これと矛盾するのでは?

「福井重雅」氏も述べていた論点で、後漢書の四夷伝は殆どが三国志には無いので、三国志を見ても書けない。

その中で四夷伝全体の約8%しかない東夷伝だけは、三国志参照したとするのは無理過ぎる話ではないか。

①「魏志倭人伝の謎を解く」より

---引用---

1-(7) (魏志倭人伝の)「郡より一万二千里の彼方」は、『翰苑』に引く『魏略』がもとの史料である。一万二千里は、大月氏国との関係から創作された数字であろう。ただし、それ は『魏略』の著者である魚拳や陳寿が創作できるものではない。陳寿が見た裴秀の 「禹貢地域図」では、朝鮮半島の南部から会稽郡の背後までを約五千里としていたと いう。これが、陳寿、あるいは『魏略』の著者である魚豢が、会稽郡の東方海上にあ るべき邪馬台国の、狗邪韓国からの距離を五千里(帯方郡からの距離を一万二千里)とし た拠り所であろう。陳寿が継承した帯方郡から邪馬台国までを一万二千里とする『魏略』の記述は、西晉の公式見解であった可能性が高いのである。

---引用終了---

➡「萬二千里」は後漢書にも有ります。

後漢書<樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。>

⇒渡邊氏の魏晋代の国際情勢から入る見方に対しては、「魏志非依拠」説に立つと、「後漢書にも(魏志参照では無く)萬二千里の記述が有る」という事実から、「萬二千里」は後漢代の話になり、魏晋代とは関係が無くなるという見方が出来て来ます。

渡邊氏は①などの著作を読むと、前述の「魏晋代の国際情勢」が主張の基本論拠になっている面があるように感じますが、「魏志非依拠」になると根底が崩れるのではないか?という気もします。

追記以上