邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

早稲田大学名誉教授「福井重雅」氏論文

期間限定で「福井重雅」氏の論文「後漢書』 『三国志』 所収倭 (人) 伝の先後関係」を掲載します。

福井氏の古稀・退職記念論文集「古代東アジアの社会と文化」の中に入っている論文です。(早稲田大学教授としての最終講義2006年1月の内容の一部をまとめたものとのこと、福井氏は残念ながら2020年に故人)

古代東アジアの社会と文化 - 株式会社汲古書院  2007年4月刊行

<福井重雅先生の古稀・退職を記念して知友・門下生25名による最新の研究成果を六章に収録。 福井重雅先生による「後漢書』 『三国志』 所収倭 (人) 伝の先後関係」 も収録する

→福井氏は論文の最後の方で次のように結論を述べています。結論に至る証明も明快です。

范曄はそれらの先行史料を利用して“修史”に從事すれば十分であって、わざわざ王朝や時代を異にする、後出の『三國志』を用いなければならない必要性や妥當性は、微塵もなかったのである。以上がこの論文の結論である。

➡「微塵もなかった」ということで、”「三国志魏志)」も参照した”というような、いわば中間的な考え方も、はっきりと否定しています。

また、「後漢代原史料」に相当する史書としては次のように述べて、東観漢記を基にした「華嶠(かきょう)」の後漢書(「漢後書」ともいわれます)を范曄は第一の原典としたと想定しています(その根拠は論文の中で述べています)。

「諸家後漢書」のうちで、范曄が最重要視して、『後漢書』の第一の原典として活用した一書こそ、ほかならぬ華嶠『後漢書』であった

→このような画期的内容の論文が、殆ど知られていなくて、実質的に埋もれた状態になっていたと思われ、今まで気が付きませんでした。

論文の中には色々証明が記載されていますが、特に分かり易いのは「もとの史料に書いてないことは、その史料を見ても書けない」というシンプルなものです。

例えば後漢書では「四夷伝」が「東西南北」と揃っていますが、魏志では烏丸鮮卑伝(北)と東夷伝(東)しかありません(しかも「烏丸鮮卑伝」は後漢書に必要な後漢代の記述無し)。

魏志を見ても無いものを、どうやって范曄が書けたのか?と考えれば、「後漢書魏志とは違う史書を参照した」ということがすぐに分かります。

また、当方調べの文字数割合(下図)で、後漢書東夷伝後漢書四夷伝全体の約8%、倭伝に至っては約1.3%と少なく、このような所に范曄が手間をかけたと考えるのは無理筋になるでしょう。倭伝だけを特別に扱ったという想定をするのでは、非常に恣意的な見方ということになってしまうと思います。

このような簡単な話が、江戸時代や明治時代からの長い期間、中国史の専門家でも分かっていなかったのが異常と思えます。それを福井氏が指摘しました(当方もブログ等で華嶠書も含め同様指摘実施)。

福井氏の証明は素晴らしい内容ですので、以下に全文掲載します。

なお、当方が「通説」として”「魏志依拠」説”と呼称しているものに対して、福井氏は「定説」として”後漢書』倭傳の『魏志』「倭人傳襲用論」”という呼称にして、検討を行っています。



以上