邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B030)東夷伝比比較「挹婁伝」

三木太郎氏は「刪潤」という言葉を用いて「魏志依拠説」を主張。

後漢書」編述の際には「魏略」または他書も参照されたであろうが、その「大綱」は「魏志倭人伝により洲潤されたものであろう・・・

後漢書」の前文は「魏志」よりの意識的刪潤と言える>

→「洲潤」という言葉は検索しても出ないので「刪潤」の誤植?

また、「魏略」は参照していないのではないか。

その上で、他にも「刪潤」を用いている専門家の例。

◆石原道博

<『後漢書』倭伝が、主として『魏志倭人伝によったこともあきらかであり、その潤(さんじゅん)の方法はきわめて巧妙にされている>

内藤湖南

後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。>

⇒並べてみて今回気づきましたが、石原氏は湖南氏の文章を使っているように見えます。「魏志依拠説」の「刪潤」のルーツは湖南氏かも知れません。

 

さて、言葉の使い方はさておき、問題は、「魏志依拠説」は成立していないと思われるのに、上記のような強固な「通説」になってしまっている状況。

それで、倭人伝や韓伝に比して、「文章が短い伝」の方が参照関係が分かり易くなるのではないかという観点で、「挹婁伝」の比較を行ってみました。

表を示しますが、それにより分かった点。

①赤字:追加部分

→特に分かり易いのは「黄初(220年 - 226年)」の出来事(夫餘による重税への叛乱と夫餘による討伐)の追加。

魏代分の追加なので、「魏志」としては辻褄が合います。

しかし、通説は「范曄による魏志の刪潤」であり、范曄が「魏志」の文章を見て、「黄初」関連の文章は魏代だから削除したことになります。

范曄が挹婁伝の細部まで、手間かけて修整したのでしょうか???(当方見解としては到底やらないでしょう)

しかも、それ以外にも比較表から分かる修整箇所があるので次項で説明。

②矢印点線:記述が移動している箇所

→複数ありますが、まず重要と考えるのは「後漢書の方が話の流れが自然」という印象。

例えば、「弓矢」の話(水色字)が位置が違いますが、「魏志」では「挹婁人は不潔」という話の直後に来ています。

「弓矢」の話は挹婁人の勇猛さを表す特筆事例と思われるのに、「不潔」や「厠」の直後では、話の流れが悪過ぎると思えます。

その点、後漢書は「多勇力」の後で、話の流れに無理が有りません。

また、魏志では「古之肅慎氏之國也」の位置が、「弓矢」の話の途中に入っているのに対して、後漢書では冒頭に有ります。

これは陳寿が「粛慎の矢」の故事を言いたいがために、(無理に)移動させたと考えることが出来ると思います。

それに対し、文章の構成からは「挹婁」のルーツという基本事項ですから、後漢書が冒頭に置いているのは妥当です。

その他の移動している箇所も、基本的に後漢書の方が話の筋に無理がなく、原史料に忠実ではないかと推察します。

結果的に、范曄の文章の方が自然で、陳寿の無理のある文章が意味するところは「通説とは逆に陳寿が改作した」と考えるのが真相になると思います。

なお、余談になりますが、挹婁伝やその他の東夷伝の各伝は、「日本人の読解力」を測る良い課題文になるかも知れません^^;

真面目な話としても、読解力の問題は日本人にとって非常に大きいと思えます。

(ただし、中国人学者も「後漢書は陳書非依拠」を見抜いていないようなのは不可解です)

以上