『後漢書』夫餘伝の分析結果を以下に示します。
◆文字数(記号を含んだ概略数...A~D合計で696文字)
A(黒字):44文字⇒概ね「魏志」に有る部分
B(青字):163文字⇒魏志に無く、概ね「魏略」に有る部分
C(黒字):278文字⇒概ね「魏志」に有る部分
D(赤字):211文字⇒「魏志」に無い部分
⇒文字数は「A+C=322文字」、「B+D=374文字」
魏志に無い「B+D」が全体の半分以上になっています。
当方の観点は、「范曄は三国志を見ないで書いている」ということです(「見ないで」は「参照せず」を含んだ趣旨です)
これは(范曄が三国志を見ていた、或いは読んでいたとしても)「後漢書を編纂する際に、三国志を参照史料として使用しなかったら、(編纂時には)見ていないのと同じ」という論理で考えています。
具体例が上記で、後漢書「夫餘伝」は全体のうちの半分以上が、「魏志に無い部分」と「魏志に無く魏略相当の部分」になっています。
つまり「半分以上は三国志を見ないで書かれている」わけです。
そして残りの半分弱の内容が、例えば衆家後漢書などの史料に有れば、夫餘伝全体が三国志を見ないで書けます。
その上で、後漢書異国伝の編纂に使用された後漢代の史料としては、「東観漢記」が有力候補と考えています。
なお、(当方とは違って)「三国志と、それ以外の原史料も参照した」という見方をされる場合には、”『三国志』を見なかったら絶対に書けなかった箇所」が有るのかどうか?”という疑問も出て来てきます。
実際にそのような箇所は有るのでしょうかね???
以上
[追記]
上記夫餘伝の「魏略」相当部分について、参考のために「三国志の裴松之注」と「太平御覧の当該部分」の魏略を添付します。
太平御覧のものは、ほぼ同内容で三箇所に書かれています。
しかし、全く同内容ではなく微妙に違っています。
上掲の後漢書の魏略相当部分と併せて、同じはずの内容が4種類あって、それぞれの違いは中国の文章の捉え方の参考になると思えます。(書写の影響も考えられます)
《魏志》
◆裴松之注
《魏略》曰:舊志又言,昔北方有高離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如雞子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙噓之,徙至馬閑,馬以氣噓之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓擊水,魚鱉浮爲橋,東明得度,魚鱉乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。
《太平御覽》・・・《魏要略》と《魏略舊志》という書名は別途検討予定
◆《兵部七十八》《弓》
《魏要略》曰:北方有橐離之國,其王侍婢有身。王欲殺之。婢云:「有氣如雞子來下我,故有身。」後生子,王捐之于溷中,豬以喙噓之;徙馬閑,馬以氣噓之。王疑以為太子,令其母收畜之,名曰東明。常令牧馬。東明善射,王怒,奪其國,殺之。東明走,南至奄水,以弓擊水,魚鱉浮為橋,東明得渡。魚鱉解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。
◆《人事部一》《孕》
《魏略》曰:昔北方有高離國者,其王侍婢有身,王欲殺之。婢云:「有氣如雞子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙噓之,徙於馬闌中,馬以氣噓之。王疑以為天生,乃令其母收畜之,名之曰東明。帝令牧馬。東明善射,王恐奪其國,欲殺之。東明走,至淹水,以弓擊水,魚鱉浮為橋,東明因得渡。魚鱉散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地也。
又曰:黃牛羌種孕身六月生。
◆《鱗介部四》《鱉》
《魏略舊志》曰:昔北方有橐離之國者。其王侍婢有身,王欲殺之。婢云:「有氣如雞子來下我,故有娠。」後生子,王捐之於溷中,豬以氣噓之;徙馬欄,馬以氣噓之。王疑之以天子,乃命其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國,欲殺之。東明走,南至淹水,以弓擊水,魚鱉浮為橋,東明得渡,而魚鱉解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。
追記以上