邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B038-1)後漢書倭伝と魏志倭人伝の「習俗等の記述順比較」6(橋本増吉氏の見解について)

橋本増吉氏の「史料接合」に関連する見解を整理

①「風俗習慣に関する疑問」[添付1]

倭人の風俗習慣に関する記事・・・その部分は最も乱雑な記載となって居り、・・・ただ諸種の史料を雑然と採取接合せしものに過ぎざることは、一見して明白なるところである。随ってその何れの部分が魏略或はその他の史料に拠ったものか、或は本来魏略の原文がかくの如きものであったのか、之れを判定することは、全く不可能の事情にある

→「諸種の史料を雑然と採取接合」は的確な見方と推察。

ただし、[添付2]に示すように、魏志の記述は「持衰」を境に後漢代原史料」A「魏代新情報」Bの二つに分けられる可能性が有ることには橋本氏は言及が無いようです(「魏代新情報」は陳寿が入手できたであろう「晋代」情報も含みます)

[添付1]

[添付2]

①「倭人の身体装飾に関する疑問」[添付3]

鯨面面文身を以て装飾をなせるものが、同時にまた朱丹を以て身体を塗り、その装飾となしたということ、而も、更に無縫の布を身体に巻いたということが、果して事実として認めらるべきであろうか、疑いなきを得ないのである>

→これも妥当な疑問と考えられます。

但し、「後漢書倭伝」の風俗記述 [添付4]でも、3種類の装飾が有って、しかも3種類を並べて記述されています。

これは「後漢書後漢代原史料に忠実」と考えると以下が分かり易くなります。

後漢代は、57年107年遣使が有ったとはいえ、倭に関する情報は極少なく断片的であったことが想定され、持っていた情報を書いたら3種類の装飾の列記になったのではないか

→それに対して、魏代には卑弥呼の遣使が繰り返され、身体装飾も倭の使者を見ています。

問題は、それにも関わらず橋本氏が疑問を持つような記述になってしまっています。

これをどう考えるか?

当方の見方は「魏志倭人伝全体も、大きく前半と後半の二つに分かれて、後半の魏朝公式記録と思われる『景初二(三)年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,・・・』は信頼可能。しかし、後半は史料接合とそれに伴う陳寿の細工などが考えられ、信頼できる部分とそうでない部分が混在しているのではないか」というものです。

今後更に検討。

なお、「梁職貢図」は、「魏志倭人伝の記述から想像で描いた可能性が高いのではないか」という説を支持。

[添付3]

[添付4]

[添付5]

以上