行程の新解釈が出来ました。ベースは下表です。
➡A(距離)とB(位置)について、以下のことが言えそうです。
A:里数の「①方四千里②七千里⑥万二千里」は後漢書・魏略・魏志に共通です。
→結果的に、この三つの里数は”後漢代から有った”と考えることができるでしょう。
そして「後漢書は魏志に非依拠」から発想すると、「萬二千里」は後漢代原史料に既にあったと考えるのが妥当になります。
それに対して従来は、この三つも含めて魏志の行程記述は、「魏代になってからの倭と魏の使者の往来等で得られた里数」と想定して、行程検討をして来ている場合が多いと思われ、発想の転換が必要になります。
重要な点は、後漢代において既に「倭の中心地までの里数は楽浪郡境界から萬二千里」と中国の人が認識していたということです。
B:「會稽」と「儋耳朱崖」が後漢書と魏志で共通です(魏略は不明)
→まず「會稽東冶」(後漢書)と「會稽東治」(魏志)の論議が有りますが、「後漢書は魏志に非依拠」からすると、後漢書は「會稽東冶」と考えるのが自然になります。
そうなると、後漢代の中国の認識では、倭は「會稽東冶の東」になります(ただし、その位置がどれぐらい正確かは別の話)
ここで思うのは「東冶」か「東治」かの長年の論争が、「魏志非依拠」で片付いてしまうことです。
詳細な地名論議などをしなくても、「魏志非依拠」で結論が出せることは、「通説崩壊」の影響が予想以上に大きいことを意味しそうです。
「儋耳朱崖」については、多分後漢代より前に「倭人は南方」という(誤った)認識が出来てしまっていたことが考えられるのではないかと推察。それで海南島の習俗が倭に結び付けられたか、或いは倭の習俗が断片的に伝わって来て、それが海南島の習俗に似ていると結び付けられた可能性も。
➡上記の様に考えた上で、AとBの両方を改めて見てみると、「AとBは(中国において)独立の認識だったのではないか」という気がして来ます。
A:前漢代などの紀元前から、倭が中国に使節を送っていたのは確実と思われ、曖昧ながらも「萬二千里」の認識が得られていたのではないか。また、楽浪郡との往来等からの情報もあり得たでしょう。
B:『漢書』からの影響が考えられそうです。地理志下の「燕地・呉地・粤地」の三地域に、倭に関連する記述が有ります(実際に関係しているかは別にして史書に有る記述)。
本来は考えにくい話しですが、個人的には以下のような推察をしています。
■「漢書地理志の三つの地域にある倭関連の記述を、その後の史書が吟味不足のまま取り込んでしまったのではないか」
→[追記]に記載しましたが、班固は後漢代の史書編纂にも携わっていました。その結果として、漢書は後漢代の史書にも想像以上に大きく影響していて、逆に混乱を招いた面が有るのではないかという気がしています。
以上
[追記]
Wiki「班固」
<後漢書』班彪列伝によると、班固は右扶風安陵県の人であり、若いころから文章に優れていた。父の班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに『史記』の『後伝』65編を編纂していた。建武30年(54年)に父が没した後、班固はその遺志をついで歴史書を編纂していたが、「ひそかに国史を改作しようとしている」と告発されて投獄された。弟の班超が明帝に上書したところ、冤罪として班固は許され、高く評価されて蘭台令史の職につけられた。後に典校秘書に遷った。班固は『世祖本紀』(後の『東観漢記』の一部)を共同で編纂した。『漢書』はその後20年ほどかけて基本的に完成した。
章帝は文学を好み、班固は高く評価された。帝は経典の本文に関する白虎観での論争の経緯を班固に編纂させた。
永元4年(92年)、竇憲が失脚すると、班固もまた竇憲一派とされてこの事件に連座して、獄死した。
『漢書』の未完の部分は妹の班昭が引き継いで完成させた。>
補足以上