前記事の中から着目点を抽出して、私論を作成してメモ。
以下のように考察してみています。
◆①韓 方四千里
→韓半島の地形は三方が海で、範囲が分かり易いと言えるでしょう。
それで古来から領域が「〇〇四方」という感覚が有ったのではないか。
そして「〇〇」に、たまたま四千里を当てた状態が定着して、後漢書の「方四千里」記述になったのではないか。
更にこれを基に海峡の距離を三千里と出して、後は比率で各国までの概略距離も出すようになった。
この考えに立つと、短里も説明出来てしまいます(苦笑)
◆②~⑤漢書からの影響
→漢書地理志の記述で、倭に合うかもしれないと思った記述を、全部載せたのではないか。それで「燕地・呉地・粤地」の記述が引用された。
◆②楽浪海中
→これが本筋で、朝鮮半島からの情報がもたらされていたのではないか。
◆③太伯の後
→呉との繋がりになるが、倭の稲作のルーツは長江流域からという有力説もあり、倭人のルーツとしても呉周辺が重要なことを中国人も感づいていた?
◆④⑤會稽・儋耳朱崖
→「異面」の国ということで、中国人は倭人の刺青に注目していたのは確実。
そして「刺青=南方の風習=倭は南方」という、いわば単純な論理で中国でも最南方の海南島付近と関連付けられたのではないか。
◆⑥大夫
→全く私論であるが、漢書の記述の三地方(燕・呉・粤)を全部入れてしまうのは無理があると陳寿が気付いて、呉の太伯は外して、空いたスペースに後漢書の倭遣使にあった「自称大夫」を入れたのではないか。
➡強引な所もありますが、上記の着眼点は今まで個人的にどうしても説明がつなかった部分で、初めて試案が出せました。今後更に検討。
以上