邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B099)「後漢書は魏志非依拠」からの 行程の再検証

魏志倭人伝のブロック分割での検証で以下構成が見えて来ました。

→結果的に、後漢書の「七千里と萬二千里」が基本になると考えます。

それで表を作成してみました。

→ポイントは、「韓の大きさ」について後漢書に「地合方四千餘里」と有るのを加えて検討していることです。整理すると里数は以下になります(計算のために「餘」は省略)。

・ ①韓の大きさ:方四千里

・ ②楽浪郡 - 拘邪韓國:七千里

・ ③楽浪郡後漢代の倭の中心地:萬二千里(邪馬台国と呼べるかどうかは不明)

・ a~c(海峡の距離):計三千里

・ X(倭本土の上陸地点から倭の中心までの距離):二千里(引き算)

➡更にこれらを図にしてみます。

➡当方は邪馬台国論議の全体的前提となる「魏志非依拠」の証明に先ず取り組んできたので、行程の話は焦点がそれかねないため、あまり言及しないようにしてきました。

それが、もはや「魏志非依拠」は固まったと思えるので、改めて後漢書の独立性を基に考察してみたら、何だか一般的な行程図に近くなってきた気がします(苦笑)

しかし、やはり「魏志非依拠」に基づく考察は違う面もあって、後漢書にも韓の大きさが「方四千里」と有るのを重視しています。

その上で、海峡を挟んだ距離に相当する「三千里」は、後漢書魏志も関係なく、地理的に動きません(各間隔ごとの詳細な距離の違いは無視するとして)。

結果的に「楽浪郡激から倭本土」までは、「七千里+三千里=一万里}と考えることが出来て来ます。これは前述の海峡だけでなく、韓の大きさも含めた地理的条件から出てきているので確実と言えるでしょう(短里と呼ぶかは別として、韓を方四千里と表す距離基準は有ったと考えざるを得ないとして)。

更に具体化するために、地図上で表してみました。

倭本土の港は、壱岐から近い唐津を想定してみました。

呼子が一番近いですが、或る程度の大きさの集落が有ったとすると、地形的には唐津辺りは有力ではないか。なお、後漢代は航海技術が未発達と想定して、海上距離が短いということで、博多湾沿岸より、まず唐津近辺としてみました。糸島付近もありそうな気はします)

「一短里相当=75m仮定」で「二千里=150km」半径の円を入れてみると、これもよくある図に見えて来ます。熊本以北の九州北部が入っていて、西日本は中国地方西部の一部のみです。

やはり、”後漢代の倭の中心地は北部九州に有ったと考えるのが自然”ということを改めて表しているようにも思えます。(考古学面で貨泉や前漢鏡の出土範囲などもあります)

なお、倭本土内の二千里は直線距離にしているので、実際の行程にはジグザグも発生して、もっと円の範囲は狭まると考えられます。

考古学での重大発見期待。

以上