邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B053)「後漢書」本紀における「詔曰」の出現数

後漢書」本紀を更に調べてみました。
本紀の中でも公式性が高い「詔曰」に着目して記載箇所数をカウント。
合計123箇所もありました。

 
これほどの数の詔記載の「元ネタは何か?」が課題になります。
また、魏代史書には時代的に合わないので、この多数の後漢代の「詔」は記載が有るはずもなく、范曄は参照できません(例えば三国志後漢末の「曹操」から開始)。
 
それに対しては、例えば以下の様な論考があります。
”范曄『後漢書』の伝来と『日本書紀』”池田 昌広
後漢史をつづった史籍として、范書と晋・袁宏『後漢紀』との二書が現存するのみだが、それ以外にも多数の後漢書が著されていた。いわゆる「九家後漢書」といわれる紀伝体後漢書編年体の晋・張璠『後漢紀』とがそれである。これらのうち范書はもっとも後発の史籍であり、その成書は後漢の滅亡から二百年以上を経過してのちのことであった。そのため范曄が後漢書を編むにあたっては、あらたに追加すべき史実の発見はほとんど望めなかっただろうし、文章それ自体さえも先行する各後漢書から強い制約をうけたであろう。事実、范書の撰述は官撰の『東観漢記』を主材料にしたことが知られ、両書のあいだには類似する表現がおおい。>
➡本紀に記載されている詔の内容は、中には節略されているものも有るかも知れませんが、記述の詳細なものは、もとの詔のままでの引用が考えられます。
つまり、後漢朝記録の「一次史料」の可能性が高いので、公式記録書である「東観漢記参照」の推測は当方も支持。
 
「東観漢記参照」と見る見解では、このようなサイトも有ります。
<この時代について書かれた歴史書で、後に正史に列せられたのが、南朝宋の范曄(『宋書』卷六九、『南史』卷三三に傳有)の著作である『後漢書』です。彼は、『漢書』の著者班固以来、連綿と書き継がれて完成した後漢一代の編年史である『東觀漢記』をベースに、東晉袁宏の『後漢紀』や、上記の『後漢書』を参考にして、『後漢書』を書き上げました >
➡このサイトに有る表を以下に転載。

①~③は孫呉、④~⑧は東晋です(⑦は不明)。
それに対して、王朝の時系列は「後漢⇒(黄巾の乱董卓等)⇒三国⇒西晋東晋」です。
これで①~⑧の「孫呉」や「東晋」の人物が後漢書を編纂するに当たっては、後漢代の原史料を参照する必要が有ったでしょう。
更に范曄はもっと後。
結果的に「范曄後漢書の詔などの元ネタは、後漢朝公式記録書の東観漢記」と推測するのが自然と思われます。
しかし、後漢書東夷伝になると、「後漢書倭伝は魏志倭人伝に依拠」が通説になっているという不思議。
詳細な「詔」などの記録を残した後漢朝の史官らが、関係があった異国の事情を、概要でも記録してあったのは間違いないと思うのですが。
 
以上