これまで「後漢書は魏志の要約か要約でないか」を検証して、「要約ではない」という証明を行ってきました。
ただし、「要約」という言葉は人によって認識に違いがあるかも知れないので、もっと明快な判定を行うために「後漢書は魏志を参照したかどうか」を論点の中心としていきます。
そのために、まず「魏志と後漢書の異国伝で文字数比較」を実施してみました。
(No1~6の番号は識別用に当方が独自に付与)
特徴としては、No1~4は当該伝自体が魏志に無く参照不能で、No5の「烏桓鮮卑伝」も文字数から見て魏志参照ではないことが明らかです(内容的にも魏志の烏桓鮮卑伝」の記述は「後漢末」から始まっているので後漢代の記事は参照不能)。
結果的に、後漢書の六つの異国伝のうち五つが後漢書参照ではないことが改めて明示されました。
後は「東夷伝」ですが、以下のように後漢書東夷伝の序文で、「四夷が後漢代からやって来て、その国の風俗や風土を略記できる」と記述されています。
その上で、上表No1~5で四夷のうち「南蛮・西戎・北狄」があるため、上表の右下にも書きましたように、「東夷」伝も有ったと考えるのが妥当と思います。
そして上表のNo1~5は魏志参照では書けないため、原資料『X』を参照したことになり、同様にNo6も『X』参照したと推察できます。
なお、それでも「東夷伝だけは魏志を参照した」とお考えになる方がおられる場合に向けての説明検討。
(B009)記事で掲載した表を再掲します。
これは「要約」での判定でしたが、魏志東夷伝に無い記述が後漢書東夷伝の各国伝にあることから、范曄は要約しておらず、「東夷伝も魏志を参照していない」と言えます。
以上
追記
以下の趣旨の疑問も頂きました。
「原史料が范曄の時代まで残っていたとしたら、後漢書の成立の少し前に魏志に註釈を付けた裴松之も見ていて、原史料と三国志を比較した註釈も入れたのではないか?
しかし、それは見当たらないから、原史料が残っていたとは言えないのではないか?」
→これに対しての反証例
筑摩書房「正史三国志」第八巻の最後に、「裴松之注引用書目」(作成:今鷹真)が掲載されています。
一方で、後漢書の方は東観漢記を主材料にしたという説が有ります。
https://www.nishogakusha-kanbun.net/03kanbun-001ikeda.pdf
<范書の撰述は官撰の『東観漢記』を主材料にしたことが知られ、両書のあいだには類似する表現が多い>
→これで「裴松之注引用書目」を見てみると、「東観漢記」は入っていません。
それに対して、袁宏「後漢紀」は入っています。
裴松之は「後漢紀」を見ていて、57年107年遣使にも気付いていたとすると、何らかの判断で倭人伝に付注しなかったことになるでしょう。
まとめると以下のようになると考えます。
◆付注するかどうかは裴松之の主観的判断になるので、裴注があるかどうかを「原史料の有無を客観的に判断する材料にするのは困難」に思えます。
◆一方、本記事で示しましたように、「後漢書は魏志を参照しておらず、原史料を参照は明確」です。
⇒それでも、後漢書が魏志を参照したとする場合は、「後漢書の成立時期が後ということと文言が似ていること以外に、後漢書が魏志を参照したという根拠の明示が必要」になってきます。
それがあるかどうか?が鍵になると思います(当方は見ていません)。
(「裴松之が原史料の異国伝を見ていた」場合は、何らかの証拠が出てくると思えます。逆にそれが無ければ「見ていない」ことが考えられて来ます)
以上