范曄が後漢書を作成する際に参照した「原史料X」の候補として「東観漢記」について考察してみます。
1.「東観漢記」と「後漢書」の異国伝比較
→東観漢記の異国伝は逸失が多いので、元々は後漢書の異国伝と同じ構成であった可能性があるでしょう。
古代中国では四方の異民族を四夷と呼び、東西南北に対応して「東夷・西戎・南蛮・北狄」としていたことは、よく知られています。
その中で、東観漢記も後漢書も「西」にあたる伝は、「西羌伝」と「西域伝」の二つで名称も同じ。
一方で、魏志で裴松之が引用して付加した「魏略」では「西戎伝」となっていて、一つであり名前も違います。
まずこれで「東観漢記と後漢書の関係性」が浮かんで来るように思います。
ただし、題名の整合だけでは弱いので、次項では内容比較を行います。
「東観漢記」の逸文が、全部後漢書と対応しているわけではありませんが、対応していると思える部分を抽出して表にしました(対応部分を赤字)。
一部を見てみますと、下表の一番上は、
◆後漢書:「二十六年,・・・詔乃聽南單于入居雲中。遣使上書,獻駱锓二頭,文馬十匹。・・・」
二番目は、
◆後漢書:「二十六年,・・・南單于・・・太官御食醬及橙、橘、龍眼、荔支」(注:上記逸文は「醬」欠落?)
⇒「偶然の一致ではない」ことが明らかと思います。
但し下表全体を見ても完全一致ではないですが、逸文は引用なので引用者の思惑で変更が有り得ますし、范曄の引用の仕方がどうだったかの実態は不明です。
しかし、異国伝の数が魏志より多い「後漢書」の原史料としては、「東観漢記」が有力と思えます。
(今までの記事でも述べて来ましたが、後漢書の「南蛮西南夷伝・西羌伝・西域伝・南匈奴伝」は、それに相当する伝の無い魏志を見ても絶対に書けません)
3.「中国歴史文化事典」の「東観漢記」説明
→「熹平年間( 172年 - 178年)にほぼ成立」、「光武帝から霊帝まで、後漢一代の歴史を記し」という説明になっています。
後漢書東夷伝は、220年の後漢朝の最後までは記述してなくて、例えば倭伝は「桓霊間倭国大乱」の後の卑弥呼共立までで終わっています、
他の東夷諸国の記述も同じぐらいまででなので辻褄が合いそうです。
また、前項の表で後漢書は異国伝が多くあります。
これだけの情報が集められるのは、後漢朝の史官らでしょう。
そして彼らが編纂したのが官製の「東観漢記」。
結果的に「東観漢記」が「後漢書」の原史料であった可能性は高いと思えます(但し今は個人的見解)。
以上
[追記]
これまで余り着目はされていないようですが、以下の相違もあります。
◆魏志:「烏丸伝」
⇒名称が微妙に違います(「鮮卑伝」は同じ)。
他史書での使用のされ方を見てみると、後漢書より古い漢書では、「烏桓」を検索すると35箇所出ますが、「烏丸」は以下の1箇所のみ。
<地理志下: 上谷至遼東,地廣民希,數被胡寇,俗與趙、代相類,有魚鹽棗栗之饒。北隙烏丸、夫餘,東賈真番之利。>
→漢書の成立は後漢代で、後漢代には「烏桓」の名称の方が主に使われていたことが考えられると思います。
後漢書の原資料が後漢代成立の「東観漢記」で、それには「烏桓」伝となっていたことは十分考えられるのではないでしょうか。
これ以外にも色々なところで、「後漢書の原資料が後漢代」のものと考えると辻褄が合ってくることがありそうです。
追記以上