邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B010)中元二年と永初元年の倭遣使について

前記事(009)では、「後漢書には魏志には無い異国伝が複数ある」という事実を紹介しました。

もし、この事実が広く着目されていたら、「後漢書魏志の要約である」という見方には、もっと早くから疑問が呈されていたのではないかと思います。

 

同じことが、「後漢書にある中元二年(57年)と永初元年(107年)の倭遣使記述が、後漢紀』(作者:袁宏)にもある」という事実についても言えるでしょう。

こちらは倭に直接関係する内容のため、もっと影響が大きくなります。

しかし、57年107年遣使は数多く取り上げられて来ているのに、後漢紀記述への言及は殆ど見ないと思います。

もし、後漢書記述が後漢紀記述とセットで多く取り上げられていたら、「范曄と袁宏はは、魏志とは違う史料を見て後漢代の倭遣使を書いた」ということが分かります。

しかし、後漢紀の当該記述は、邪馬台国論議の中では実質的に埋もれたような状態になっていて、注目されて来ませんでした。

後漢を書いた史書で、完全な形で現存しているのは後漢書後漢紀の二つのみ」ということは、よく知られている事実にも関わらず、後漢紀の倭遣使記事が注目されて来なかったのは不思議な話です。

なお、当方はブロガーの「hyenanopapa」さんから教えて頂いて知りました(文末の「追記2」で他の事例を含めて補足)

 

後漢紀の遣使記述の重要性は上記の通りで、以前の記事(002)でも言及しましたが、再度詳細検証してみます。

後漢書後漢紀の当該記述の比較表を示します。

大きな差異特徴としては、後漢紀は、後漢書の「本記」と同様の記述が有りますが、後漢書東夷伝の倭(一般的に「倭伝」と呼ばれている)の記述に相当する記述は有りません。後漢紀は編年体東夷伝そのものが無い)

つまり、57年107年遣使に関しては後漢書の方が詳しい記述になっています。

また、各書の成立時期の時系列を見てみます。

魏志三国志):西暦280年代・・・57年107年遣使記述無し

後漢紀:後漢書より約50年前(渡辺義浩氏解説)・・・後漢書の本記相当分あり

後漢書:西暦430年代・・・本紀・倭伝ともにあり

⇒成立が遅い方が記述が詳しくなっています。

これは「要約」では有りないことです。

結果的に、②と③は、①ではない別の史料(”原史料『X』”とします)を参照して記述したことは明らかです。

なお、①の作者の陳寿も、『X』や、それと同様内容の史料を見ている可能性は有り得るでしょう。①にある「漢時有朝見者」の記述が、その証と見ることは出来ると思います。

しかし、(『X』が何であるかがハッキリしていないという課題は有りますが)②と③には年号も入っていて、年号のない①を見ても書けないことは客観的かつ絶対的な事実です。

結論として、②後漢紀も後漢書も『X』が無いと書けません。

そして、②が書けたということは、①の約100年後にも「X」が残っていたことになり、更にその約50年後にも残っていて③が書けたという流れになります。

 

原史料『X』魏志及び後漢書の関係性について、まとめてみます。

(1)下表の後漢書異国伝の各伝は、魏志とは違う史料を見ないと書けないことになります。結果的に、原史料『X』には下表の各伝があったことになります。

(2)その上で、『X』に「東夷伝だけなかった」と考える方が不自然

(3)更に、後漢東夷伝にも魏志に無い記述が多く、「原史料『X』には東夷伝も有って後漢書東夷伝はそれを見て書かれた」と考える方が自然。

(4)ただし、「自然か不自然か」という見方は個人により差が出るとしても、最終的に重要なのは「倭伝には魏志に無い57年107年遣使記述が有る」という事実。

これでも「倭伝だけは要約」と考える場合は、「論理的思考」の結果になるのかどうか。個人的に大いに疑問。

以上

[追記1]

『X』自体の検討も行っていく予定ですが、情報がなく推測の積み重ねになることは避けられないため、先ずは確実な事実と論理によって「要約ではない」という証明を行うことが先決と考えて進めています。

[追記2]

「hyenanopapa」さんには後漢紀の記述を直接教えて頂いた以外にも、「西嶋 定生」氏の著書「倭国の出現 東アジアの中の日本」の紹介を受けて読んでみたところ、後漢紀の記述に言及されています。

P79<范曄『後漢書』倭伝が典拠としたと考えられるいわゆる「衆家の後漢書」は、いずれも亡佚している。しかしそれらのうち、ただひとつ残存している袁宏「後漢紀』のみは、その巻一六の安帝永初元年十月の条に「倭国遣使奉献」と記して、明らかに「倭国」という名称を記載していることに注意される。 このことは「倭国」という名称を使用している史書范曄「後漢書』以外にもあったことを示すものである。
後漢紀』の撰者袁宏(三二八ー三七六年)は東晋の陳郡陽夏(現在河南省太康県)の人で、その撰述した「後漢紀』三〇巻は、荀悦の「漢紀』の体裁に仂った後漢一代の編年体断代史であり、 その撰述は范曄の「後漢書』撰述よりもおよそ五〇年あまり以前のことである。それゆえ范曄『後漢書』倭伝ならびに袁宏『後漢紀』安帝永初元年条がともに「倭国」の名称を用いていることは、この名称が范曄の恣意に始まるものでないことを示すものである。さらに范曄・袁宏が何を典拠として倭国」の名を採ったかということは、「衆家の後漢書」が亡佚している現在、 これ以上追求の方法はない。・・・>

西嶋氏は中国古代史の専門家で「范曄と袁宏が見た(現在では知られていない)史書があった」ことを見抜いておられた。

但し、同氏の関心は、後漢紀の遣使記事の存在自体より、「倭国」という名称の起源にあったようで、「別の史書」の認識を広めることはされなかったようなのは残念。

 

なお、「hyenanopapa」さんのブログのトップページは以下で、様々な興味深い情報を書いておられます。

魏志倭人伝への旅

また、ブロガーの「白石南花」さんも後漢紀記述を紹介しておられます。この方も非常に博識です。

https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/kininkou1.htm

< 後漢紀には下記のようにあります。

二年春正月辛未初起北郊祀后土丁丑倭奴國王遣使奉獻
  (拙訳)二年春正月辛未、はじめて北郊を建て后土を祀る。丁丑倭奴國王が使いを遣わし奉獻した。>

 

⇒当方が認識できているのは以上のご三方のみで、邪馬台国論議への参加者の数からしたら極少ということになるでしょう。

この少なさのために、無理筋の「要約」という認識が続いてしまったと思われます。

(もし他にも後漢紀の遣使記述を紹介している事例を知っている方がおられましたら、参考にしたいのでコメント欄で教えて頂けると有難いです)

 

追記以上