邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B106) 魏志と後漢書での「倭国」の記述箇所

これまでの検討の中で、”倭国」がいつ頃から登場したのか?”が私的課題になってきたので、参考用に魏志後漢書で「倭国」の箇所を赤字にしてみました。

魏志倭人伝3箇所、本紀1箇所

倭人伝では3箇所とも後半に記述。特にDブロックは、習俗の中で高度な内容と思われ、魏代の情報と推測しますが、その中に「倭国」が含まれることが、魏代情報であることの更なる裏付けになるでしょう。

<尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戶與大人相逢道路逡巡入草傳辭說事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾>

→Dブロックの情報が新しくて、逆に習俗のCブロックは基本的に”古い情報=後漢代か、それ以前”ではないか、という気もして来ます(陳寿による部分的追加は有るようです)。

また、「倭国乱」は後漢書では「倭国大乱」で、「乱と大乱」の違いがありますが、両書とも「倭国」であるのは何か意味が有るかも知れません。

なお、Fブロックと本紀は確実な魏代情報であり、その頃は「倭国」という呼称が定着していたのでしょう。

後漢書:倭伝3箇所、本紀2箇所

→倭伝で注目されるのは、”57年遣使の記述で既に「倭国」が出ている”ことです。

倭伝:建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

→この時期に「倭国」は(直感的に)早すぎる気がします。

それで思ったのですが、「倭國之極南界也」が難解な謎になっているのは、そもそもこの時期にそぐわないと思える「倭国」が出ているからではないか?(「倭国」と言えるぐらい支配領域が広がったのは、いつぐらいの時期か?)

また、”107年遣使では倭伝と本紀の両方に「倭国”があります。

■倭伝:倭國帥升

  本紀:倭國遣使奉獻

→ただし、これらは”本来の後漢書の記述が「倭面土国」だったかどうか?”で話が変わって来るでしょう。

以下の”倭面土国に関する一覧表wiki”を見ると、「倭面土国」(或いはその異体字)の可能性の方が高いように思えて来ます。

しかし、「倭面土国」の場合は、後漢書の「歴年無主」(或いは「歴年無王」の説も)との整合性が課題になります。

後漢書記述では”倭国大乱」による「歴年無主」の前には「倭国王(或いは「倭の主?」や「倭王?」)がいた”と考えないと話の筋が合わないからです。

結果的には、よく分からないので(苦笑)、改めて「倭国王」・「倭王」・「女王」などに関する諸説を要検討。

以上