『太平御覧』の「三韓」で気が付いたことがありました。
「《後漢書》曰」としている箇所で、実際の范書と太平御覧、及び魏志の比較
➡「三曰」が実際の『後漢書』では「弁辰」なのに、『太平御覧』では「弁韓」に変わっています。
推測としては、「弁辰」の方が古い呼称ではないか。
それで『後漢書』は「弁辰」、
一方で、例えば魏代以降では「弁韓」に変わったのではないか。
その結果として、『魏志』は「弁韓」になり、もっと後の時代の『太平御覧』も「弁韓」にしたのではないか。
➡これで辻褄が合いそうに思えます。
また、呼称が変わった理由としては、「馬韓・辰韓・弁辰」より「馬韓・辰韓・弁韓」で、「韓」で揃えるようになったのではないかと個人的に推測。
更に、『後漢書』は後漢代までの呼称「弁辰」を使用していることで、『魏志』参照ではなく、『後漢書』は後漢代原史料を参照の事例になると推測。
以下に『太平御覧』・『後漢書』を示します。
以上