邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B080) 華嶠「漢後書」検討 「四夷伝について」

華嶠書における「四夷伝」を検証するために『八家後漢書輯注』で逸文調査しました。

そうしたら、「哀牢」と「南匈奴」がありました。

范書と東観漢記を加えて比較表にしてみました。

但し「哀牢」は『東観漢記校注』には無く、『太平御覧』所引きの《九州記》にありました。

→《九州記》は、『九州春秋』ではないかと推察。(hyenaさん情報で《九州記》と『九州春秋』は別史書と分りましたので、この推察は間違いで訂正します。追記にhyenaさん情報を掲載。wiki引用は残します)

wiki<『九州春秋』(きゅうしゅうしゅんじゅう)は、中国後漢末期について書かれた歴史書

後漢末期の各地の動乱と軍閥の事績を記載したものである。著者は西晋の司馬彪である。後に散逸したため、清に黄奭が『三国志』注などに引かれた逸文を集めて輯本を編し、自らの著書である『漢学堂叢書』の中に収載した。

『隋書』「経籍志」には「九州春秋十巻司馬彪撰、記漢末事」とあり、『旧唐書』「経籍志」には「九州春秋九巻司馬彪撰」とある。『史通』「六家篇」によれば、一巻ごとに一つの州について記載し、九巻をなしたとしている。ただし漢末の州は十三州あり、そのうちのどの九州を選定したかは明確でない(『直斎書録解題』は司隸冀州兗州青州・徐州・揚州・荊州・梁州・幽州であるとしている)。

『宋史』にも書名があることから、散逸した時期は早くとも北宋以後であるが、明の陳第の『世善堂蔵書目録』にも書名があることから、明代まで残存していた可能性もある。>

後漢末は騒乱多発で史料が少ないと個人的に認識していましたが、当方が知らない史料が色々有る可能性。

 

また晋書の記述を紹介しているサイトが有り、華嶠も有りました。

『晋書』簡訳 巻四十四 列伝第十四

<のち〔詔が下り〕、華嶠は博学多識で、著書は事実に忠実であり、良史の志をもっていたことから、秘書監に転任させ、散騎常侍を加えた。〔秘書監の〕朝位は中書監と同等とし、〔秘書の〕官府は内台とし、中書・散騎・著作の業務、および治礼、音律、天文、数術、南省の文章、門下の書類をすべてまとめて担当させた。
 かねてより華嶠は「漢紀」が煩雑だと考えていたため、奮然として〔漢史を〕編纂しなおす志を抱いていた。折りよく台郎(尚書郎)に就き、官制に関する仕事を担当すると、これによって宮廷に所蔵されている書籍をあまねく閲覧できるようになったので、ようやく漢史の著述に着手したのであった。〔叙述は〕光武帝から始まり、孝献帝で終わり、〔叙述の期間は〕一九五年間で、帝紀が十二巻、皇后紀が二巻、十典が十巻、列伝が七十巻、三譜、序伝、目録〔が各一巻〕、合計で九十七巻を著わした。華嶠の考えでは、「皇后は天(皇帝)に並び立って〔皇帝と〕つれあいとなる存在である。〔それなのに〕前代の史書(班固『漢書』)が〔皇后のために〕外戚伝を設けて全体の末尾に継ぎ足しているのは、皇后のこの義に合致していない」。そこで〔列伝形式を〕変更して皇后紀を立て、帝紀の次に配列したのである。>

→着目すべき点として以下を感じました。

①華嶠は「東観漢記」が煩雑と考えていて、編纂し直す志を抱いていた

②要職について、宮廷所蔵の書籍をあまねく閲覧できるようになった

③叙述は光武帝から始まり、孝献帝で終わり

➡結果的に、陳寿が利用できた宮廷所蔵書籍を華嶠も使えたのではないかと思えます。

それであれば、陳書を見ないでも後漢代は記述出来たということになりそうです。

 

以上

[追記]

hyenaさん情報(ツィート2つ)

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>《九州記》は、『九州春秋』ではないかと推察

筑摩『三国志Ⅲ』巻末の裴松之注引用書目によれば

九州記 荀綽撰

九州春秋 司馬彪撰

とあり、別物のようですね。

九州記 荀綽撰 中国全土について古代の区画に従って九つの州に分け、州別に事跡を記したもの。裴注に見える『冀州記』『兗州記』は、この『九州記』の一部と思われる。

九州春秋 司馬彪撰 隋志に「九州春秋十巻、司馬彪撰、漢末の事を記す」とある。司馬彪は晋の歴史家、他に『続漢書』がある。

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追記以上