邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B065)「倭面土国」について

前記事の追記で書いた、hyenaさんから教えて頂いた掲示板時代のコメント(by湖南氏)から触発を受けて「倭面土國」の検討を開始してみようと思います。

<東觀漢記安帝紀の記述は、
「(永初元年)冬十月、倭國遣倭面土國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。』
という風なものだったかと思われてくるわけです。 >

→まずwkiを参照してみます。

wiki「帥升」

<この中の『後漢書』以外のすべての記事は、『後漢書』の列伝記事の記述をもとに書かれたと思われる。しかし、これらの記述は、現存する『後漢書』の記述とはことなっている。 そのため、『後漢書』の原本は、現存する『後漢書』とは少し異なっていたとする見解も見られる。また、『後漢書』の「東夷伝」の倭国の記事は、南朝劉宋時代の范曄が、魏志倭人伝などのいくつかの記事をもとに書いたとも考えられているが、「東夷伝」(「列伝第七十五」)の「建武中元二年倭奴国…」と「安帝永初元年倭国王…」の記事は、魏志倭人伝には載っておらず、何を基に書いたのか不明とされている。(後漢書参照)>

→このwikiに、「倭面土國」の表記がある史書の表が掲載されています(倭面上國などの異字を含む、また元は「帥升」の表なので「倭面」の表記が無い項目もあります)。

→表にある史書の成立年代は以下です(wikiより)。

(1)後漢書の刊本は国宝のもので中国・南宋の慶元年間(1195年 - 1200年)の発行。

国宝-書跡典籍|宋版後漢書(慶元刊本)[国立歴史民俗博物館/千葉]
2020.10.15 国宝DB-書跡・典籍 上杉家宋版古代中国

(2)翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。660年以前に対句練習用の幼学書として書かれたとされている。

(3)通典(つてん)は、唐の杜佑が書いた、中国の歴史上初めての形式が完備された政書で、十通の1つ。全200巻、加えて考証1巻。代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂された。

(4)《唐類函》,明代(1368年 - 1644年)類書,俞安期編輯

(5)『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)は、『日本書紀』の注釈書。一条兼良著、全6巻。『書紀』の神代巻のみを注釈したもので、成立は康正年間(1455年 - 1457年)。

(6)異称日本伝(いしょうにほんでん)とは、1688年元禄元年)成立、江戸時代松下見林(まつしたけんりん)が書いた歴史研究書。

(7)『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。『釈紀』の略がある。全28巻。著者は卜部兼方(懐賢)。著作年代は未詳だが、平野社系卜部家であった兼方の父兼文が、文永元年(1264年)または建治元年(1275年)に前関白一条実経らに講義を行った。このときの説話に、奈良時代以降の数々の『日本書紀』注釈史料を参照して編集したとする。正安3年(1301年)には写本が確認でき、つまりはこの20余年の間に編まれたと考えられる。

 

➡上記より、ポイントと思えること

「翰苑」「通典」など、「後漢書刊本」(上杉版)より以前に成立の史書が有り、もとの後漢書には「倭面上国王帥升」(翰苑)、「倭面土国王帥升」(通典)のように「倭面・・・」の表記が有ったと考える方が自然な発想となりそう

→更に継続して検討予定です。

以上

[追記]

上記の(1)国宝後漢書の解説の中に、以下の文章が有ります。

<(後漢書は)内容が魏志倭人伝と重なるため、魏志倭人伝を参照したとする説もあるが、後漢書のみに記された記載も有る>

→ここでも「魏志依拠」の通説の影響が出ています。

しかし、それにしても「歴博」による国宝の解説で、通説の矛盾(後漢書のみに記された記載も有る)を明記しながら、それの真相を追及しないままなのは余りにも情けない。

しかも「袁宏『後漢紀』にも後漢書と同様の遣使記載がある」ことすら、書いてありません。

以上