邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B024)笠井新也氏論考 「卑弥呼の冢墓と箸墓」1

笠井新也氏と小澤一雅氏とで見解が相反しているので、主要論点を抽出して、当方の現状判定を行ってみました。

➡両者で(当方判定によると)正しい所と間違っている所があるようです。

このような場合には真相把握が行いにくくなります。

 

以下は参考として、笠井氏の論文から「箸墓古墳=卑弥呼墓」の論考の抜粋引用です。

非常に精緻で納得性が感じられる論理と考えています。

これを否定するのは困難と思いますが、小澤氏は

倭人伝の「径百余歩」という描写からごくすなおにイメージされる墳墓の形状は、あきらかに円形であって、「前方後円形」ではないことは、笠井説の難点の 1つであろう。 1歩の長さを適当に解釈すれば、後円部だけをみて「径百余歩」になる前方後円墳は、箸墓以外にも奈良にはたくさんある。

と否定しています。

今後の記事で、「崇神天王没年推定」なども含めて、両者の見解比較を行っていく予定です。

-----引用開始-----

笠井氏論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」より抜粋

二 墳墓築造に関する志・紀の記載

魏志にいはゆる卑弥呼と、我が崇神紀に見える倭迹々日百襲姫命とは、その年代に於いて一致し、而もその人物・事跡があまりにも酷似することによって、此の両者が全く同一人であると推定される所以は、余輩が既に前稿に於いて詳論した所である。而もこの推定を一層強化せしめるものは、その墳墓に関する志・紀の記載の合致である。以下この事に就いて論及しよう。

卑弥呼の死が、魏の正始八年、或は九年の頃であることは、既に述べた通りであるが、その墳墓の築造に就いて、魏志は、

卑弥呼以死。大作冢。径百余歩。徇葬者奴婢百余人。」と記してゐる。その盛んな有様を想像すべきである。

思ふに、卑弥呼の墳墓の築造は、当時の倭国に於いて、少くとも墳墓の築造としては、空前の大工事であったに相違なく、さればこそ、その事実が遠く海外にまで喧伝され、支那国史にまで記載されるに至ったのであらう。「大イニ冢ヲ作ル」といひ、「径百余歩」といふ。魏志(或はその原拠となった記録)の筆者も、その大工事であったことを認めたのに相違ない。而して吾人はまづ、此の記載が、魏志倭人伝は勿論、支那歴朝の国史の外国伝中、墳墓築造の具体的記載としては、唯一のものである事に注意しなければならない。

後漢書以下、歴朝の支那国史には、皆それぞれ倭国の伝を立てて、我が国の事情を相当詳しく記してゐるのであるが、而もかくの如き墳墓築造の具体的事実に就いては、この卑弥呼に関するもの以外には、何等記す所がない。否、ただ倭国伝に限らず、史記漢書以下のすべての外国伝を通覧しても、単に一般的抽象的記載として、例へば、

 「共送死、有棺槨金銀衣裘而無封樹喪服。」(史記匈奴列伝 )

 「金銀財幣尽於厚葬積石為封、亦種松柏。」(後漢書高句麗伝)

等、送葬或は墳墓に関する土俗的資料は、各所に散見するけれども、或特殊の場合に於ける歴史的具体的記載に至っては、殆ど、否絶対に見受けないのである。以ってこの卑弥呼の墳墓に関する記載が、如何に重要事実として、魏代の史家に注意されたかが窺はれよう。

卑弥呼の墳墓が、かくの如く海外ーー 父通の不便であった当時の支那の中央部にまで喧伝され、その国史採録されるに至ったのは何故であらうか。思ふにその墳墓の築造が極めて大規模であって、中華を以って自負する当時の支那人に取っても、相当な驚異であっただらうことも一つの原因と見られるが、併しその直接的原因は、蓋しそれが支那本土に伝えられる前に、まづ倭国の国内に於いて、相当大仰に喧伝されてゐたからであらう。如何なる事実も、まづその国内に於いて喧伝されなければ、突然外国にまで喧伝されるが如き事は、極めて特殊の場合の外、有り得ないからである。

飜って百襲姫命( 冠辞を省く 以下同断)の墳墓に就いて見るに、即ち崇神紀 (十年七月ノ条)には、実に左の如く記されてゐる。

 「乃葬於大市時人号其墓謂箸墓也。是墓者日也人作、夜也神作。故連大坂山石而造。別自山至于墓人民相踵、以手逓伝而運焉。時人歌之日、飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂。」

と。その墳墓が如何に壮大であり、その築造が如何に大工事であったかは、 この文によって想像されよう。「是ノ墓ハ日ハ人作リ、夜 ハ神作ル」とある。神の援助なくしては完成し難いとまで、当時の人をして信ぜしめた程の大工事であったのである。その規模の壮大を思ふべきである。「故レ大坂山ノ石ヲ運ビテ造ル、則チ山ヨリ墓 ニ至ル、人民相踵ギテ、手フ以ツテ逓伝シテ運ブ」とある。如何に多数の人民がこの役に使用されたかが想像される。

試に、この石材逓伝に要した人民の数を想定してみる。まづ箸墓の所在地が現在の大和国磯城郡織田村字箸中であることはいふまでもなからう。而して所謂大坂が、同国北葛城郡二上村の国境附近を指したものであることも、先学の既に考証した所である。今この両地の距離を、陸地測量部のニ万分図によって測定すると、直線距離約四里十町である。これに道路の迂廻を考慮して、その一割を加算すると、約四里二十五町となる。この間を、一間に二人宛配するとすれば、 一里に四千三百ニ十人、総計ニ万ニ百八十人となる。石材の逓伝運に要した人数だけでも、これだけになる訳である。

而して「時人歌ヒテ日ク、大坂ニ踵キ上レル石群ヲ、手越シニ越サバ越シガテムカモ」とある。当時かくの如き民謡までが、時人の間に流布して、謡ひ囃された趣である。如何にこの大工事が、当時の世上に喧伝されたかが想像出来る訳である。ただ崇神紀には、その墳墓の大きさに就いて、数字的記載を欠いてゐるけれども、少くとも、それが「径百余歩」といふ魏志の記載に負かないものであることは肯定出来よう。

几そ我が古史の墳墓に関する記載は、比較的貧弱であって、殊にその築造に関する具体的記載の如きは、殆ど皆無といっても可い程である。彼の三重の隍を繞らし、周廻ニ十五町に及び、世界的大墳墓とまで称せられる仁徳天皇の大山陵に就いてさへ、書紀に、

 「六十七年冬十月、庚辰朔甲申、幸河内石津原、以定陵地、丁酉始築陵」とあるのみであって、その築造の状況、或は規模等に就いては、何等記す所がない。其の他は推して知るべきである。而して独り此の百襲姫命の墳墓に就いてのみ、前述の如き大仰な記載を見るのである。

記紀を閲するに、神武天皇以下開化天皇の条に至るまで、歴代の陵墓に就いては、共の所在地を記すのみであって、その築造に関する記載を見ない。而して崇神天皇の条に至って、突如として此の百襲姫命の墳墓築造に関する、注意すべき記載を見る。その後、古事記には、崇神天皇の条に、倭日子命の御墓に人垣を立てた事、垂仁天皇の条には、比婆須比売命の時、 石祝作及び土師部を定められた事が、何れも極めて簡単に記されてあるに過ぎない。 一方書紀には、垂仁天皇の条に、野見宿禰の建議によって、日葉酸媛命の御墓に埴輪を立てた事、神功皇后の条に、 麛坂王と忍熊王とが、仲哀天皇の陵を造ると称して、淡路から赤石へ石材を運んだ事が記され、降って推古紀・孝徳紀・天智紀等に、薄葬に関する詔勅の記載があるが、これらは何れも、墳墓築造の記載と称すべきものではない。なほ風土記の類を閲しても、二三墳墓に関する記事はあるが、何れも地名の説明、或は遺跡の説明に過ぎず、所謂墳墓築造の歴史的具体的記載ではない。

かくの如く、我が古史の墳墓築造に対する記述は、極めて冷淡であるにも拘らず、独り此の百襲姫命の御墓に就いてのみ、前述の如き大仰な記載を為したのは何故であろうか。

思うに我が国は、開化朝より崇神朝の頃に及んで、大陸との交通漸く頻繁となり、高度の品文化の影響を受けて、文物の進歩著しく、国運の隆昌またこれに伴ひ、墓制の如きもこの機運物に乗じて一大飛躍をなし、かつ対外的意味も加って、空前の発展を遂げたものと思はれる。而して百襲姫命の御墓は、実にこの新機運に際して、始めて築造されたものであって、数万の人民を使役し、長期の年月を費やして遂行された此の空前の大工事が、如何に当時の人の耳目を蠢動せしめたかは、想像に難くない。かつ前稿に於いても既に論じた如く、此の命は実に我が祭政一致の時代に於ける宗教的女傑に在して、当朝に於ける皇室・国民の信仰と成望とを専らにされてゐたとすれば、この命の墳墓築造が、更に二重の意味に於いて、世上の風説の種となったであらう事も、また想像に難くないのである。かくして、「日ハ人作リ、夜ハ神作ル」の流言を生じ、「大坂ニ踵キ上レル」の民謡が流布し、時人の間に大仰に暄伝されたので、それがロ碑として、また記録として後世にまで伝はり、遂に書紀の編者をして、重要資料として採録せしめるに至ったものと考へられる。

百襲姫命の御墓、即ちいはゆる箸墓の出現が、当時に於ける一大驚異的事実であっただらう事は前述の如くである。されば当時、我が国人の大陸に往来する者も、これを誇称して、その噂を伝へたであらう。また大陸より我が国に来往する者も、この事実を直接に目撃しないまでも、その噂は伝聞したであらう。或はまた彼我の使人の交通によって、此の事実が支那本土の中央部にまで伝へられたでもあらう。かくして此の事実が彼の国の史籍の資料として採録され、魏志にいはゆる卑弥呼の冢墓に関する記載となったものと思はれる。魏志に於ける卑弥呼の冢墓に関する記載は、実に支那史籍中、倭人の墳墓築造に関する唯一の特殊的記載である。而して我が日本書紀に於ける百襲姫命の御墓に関する記載もまた、我が国史中、墳墓築造に関する唯一特殊の記載である。而してその規模の壮大な事もまた両者よく匹敵してゐるのである。されば所謂卑弥呼の冢墓とは、即ち所謂百襲姫命の御墓である箸墓を指したものではなからうかといふ疑は、自然に生ぜざるを得ないのである。これは年代その他の有利な条件を姑く度外して、単にこの両者の対比に依ってだけでも、さやうに考へさせられるのである。況や年代の一致あり、その墳主の人物・事跡の一致あるに於いて、両者同一事実の記載であるといふことは、殆ど疑を容れないのである。

既に年代の一致あり、人物事跡の一致あり、而してまた墳墓に関する記載の合致を見る。卑弥呼即ち百襲姫命であることは、愈々決定的であるといふべきである。

----引用終了-----

➡当方は、上記で特に色付けした部分などにより、「箸墓卑弥呼墓」という判定を行っています。(小澤氏が否定に根拠にしている魏志の「径」という表現などの検証は今後行っていきます)

以上