邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B050)「後漢書」の「本紀」について 2(「後漢紀」・「東観漢記逸文」との比較)

昨日hyenaさんより以下の示唆を頂きました

<范書本紀に見えるということは袁宏『後漢紀』にもあるかも。>

→「中國哲学書電子化計画」サイトで調べてみたところ、大幅に節略はされていますが、出だし部分の同じ文章が有りました。

また、同サイトで「東観漢記」も検索したら、同様文章が有りました(後漢紀で抜けている語句も入っています)。

後漢書・②後漢紀・③東観漢記として以下に列挙します。(参考の趣旨で前後の文章も少し入れてあります)

現時点での当方推測(今後も検討)

①「後漢書」と②「後漢紀」は基本的に同一の原史料を参照したと推測することが可能と思われる。

更に「東観漢記」逸文との一致で、原史料は③「東観漢記」の可能性が更に高まった

ーーー列挙開始ーーー

後漢書《顯宗孝明帝紀 

顯宗孝明皇帝諱莊,光武第四子也。母陰皇后。帝生而豐下,十歲能通春秋,光武奇之。建武十五年封東海公,十七年進爵為王,十九年立為皇太子。師事博士桓榮,學通尚書。中元二年二月戊戌,即皇帝位,年三十。尊皇后曰皇太后
・・・
永平二年(59年)春正月辛末,宗祀光武皇帝於明堂,帝及公卿列侯始服冠冕、衣裳、玉佩、絇屨以行事。禮畢,登靈臺。使尚書令持節詔驃騎將軍、三公曰:「今令月吉日,宗祀光武皇帝於明堂,以配五帝。禮備法物,樂和八音,詠祉福,舞功德,其班時令,敕群后。事畢,升靈臺,望元氣,吹時律,觀物變。群僚藩輔,宗室子孫,眾郡奉計,百蠻貢職,烏桓、濊貊咸來助祭,單于侍子、骨都侯亦皆陪位。斯固聖祖功德之所致也。朕以闇陋,奉承大業,親執珪璧,恭祀天地。仰惟先帝受命中興,撥亂反正,以寧天下,封泰山,建明堂,立辟雍,起靈臺,恢弘大道,被之八極;而胤子無成康之質,群臣無呂旦之謀,盥洗進爵,踧踖惟慚。素性頑鄙,臨事益懼,故『君子坦蕩蕩,小人長戚戚』。其令天下自殊死已下,謀反大逆,皆赦除之。百僚師尹,其勉修厥職,順行時令,敬若昊天,以綏兆人。」

後漢《巻九》

(永平)二年春正月辛未祀光武皇帝於明堂始服冕佩玉禮畢登雲臺觀雲物大赦天下自三代服章皆有典禮周衰而其制漸微至戰國時各為靡麗之服秦有天下收而用之上以供至尊下以賜百官而先王服章於是殘毀矣漢初文學旣𡙇時亦草創輿服旗幟一承秦製故雖少改所用尚多至是天子依周官禮記制度官冕衣裳佩玉乗輿擬古式矣𡊮宏曰昔聖人興天下之大利除天下之大患躬親其事身履其勤使天下之民各安性命而無夭昏之災是以天下之民親而愛之敬而尊之夫親之者欲其閒敞平懌而無疾苦之患也故為之宮室衛以垣墻重門擊柝以待暴客敬之者欲其崇高榮顯殊異於衆故為之旗旌表以服章陛級懸絕不可得而逾也後之聖人知其如此自民之心而天下所欲為故因而作制為之節文始自衣裳至於車服棟宇垣墻各有品數明其制度盡其器用備物而不以為奢適務而不以為儉大典旣載陳于天下後嗣因循守其成法故上無異事下無移業先王之道也末世之主行其淫志恥基堂之不廣必壯大以開宮恨衣裳之不麗必美盛以修服崇屋而不厭其高玄黃而未盡其飾於是民力殫盡而天下咸怨所以弊也故有道之主覩先王之規矩察秦漢之失制作營務求厥中則人心恱固而國祚長世也二月甲子立皇后馬氏皇子坦為皇太子

③東観漢記《顯宗孝明皇帝》
孝明皇帝諱陽,一名莊,世祖之中子也。建武四年五月甲申,皇子陽生,豐下銳上,顏赤色,有似於堯,上以赤色名之曰陽。年十歲通春秋,上循其頭曰「吳季子」。孝明皇帝諱陽,一名莊,世祖之中子也。建武四年五月甲申,皇子陽生,豐下銳上,顏赤色,有似於堯,上以赤色名之曰陽。年十歲通春秋,上循其頭曰「吳季子」。
・・・
永平二年正月,上宗祀光武皇帝於明堂,上及公卿列侯始服冕冠、衣裳。祀畢,登靈臺。中元二年二月戊戌,即皇帝位,年三十。尊皇后曰皇太后

ーーー列挙終了ーーー

以上

[追記]

「中國哲学書電子化計画」サイトで「東観漢記」を検索すると、2種類出ました(本文で検討した箇所の記述は同じでした)

1)東観漢記

東觀漢記  紀二 顯宗孝明皇帝

上記③です

2)東観漢記校注

《東觀漢記卷二》紀二  顯宗孝明皇帝

永平二年正月,〔二六〕上宗祀光武皇帝於明堂,上及公卿列侯始服冕冠、衣裳。祀畢,登靈臺。〔二七〕三月,〔二八〕上初臨闢雍,行大射禮。

◆魏代史書、例えば「魏志三国志)」の本紀は「武帝曹操)紀」から始まっています。そのため、上記の「永平二年(59年)」の記事は時代的に大きく違うため、本紀に入れる場所が有りません。

結果的に、魏代史書(上記魏志を含め魏書・魏略等も)には記述が無かったことは確実と推測できます。

他方で、「東観漢記逸文」の本紀には、後漢書本紀、及び後漢紀と同様の記述が有ります。

これほど明確な証拠が有るにも関わらず(更に他の箇所でも有りうる可能性も)、漢文が読める過去の大家の方々などが、「後漢代の原史料」に考察が及んでなかったと思われるのは不思議です(今は「検索」機能の威力が絶大だからかも知れませんが)。

八家後漢書輯注《司馬彪續漢書卷一》にも有りました、今後検討

帝紀○一三明帝為光武起廟,號世祖廟。──文選卷一班孟堅東都賦注○一四明帝永平二年正月辛未,宗祀光武於明堂。祀畢,升靈臺,望雲物,大赦天下。汪──初學記卷二○

◆「後漢書八家輯注」にも同様文章有り

明帝永平二年正月辛未,宗祀光武於明堂。祀畢,升靈台,望雲物,大赦天下。汪──初學記卷二○

追記以上