邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B056)中国人学者、特に「陳長崎教授」の魏志倭人伝解釈

このところ実施している後漢書の検証からは一旦離れますが、以下の番組の内容は以前から注目して繰り返し検討を行って来ました。

TBS〜古代ミステリー 幻の国は“ここにあった!”〜 2019年5月10日放送”番組紹介

<・・・

邪馬台国」の存在を唯一記した中国の書「魏志倭人伝」を読み解くため中国へ。
漢字学・歴史学など中国の4人の権威に検証を依頼。>

➡この中で特に「陳長崎(チン チョウキ)教授」の話には関心が有りました。

それを紹介しているブログが有りました。

(5月15日訂正:ブログの途中からは、陳教授ではなくブログ主さんの見解でした。それでも非常に鋭い見解で”「江戸」と「東京」の比喩”なども適切と感じます)

魏志倭人伝の解釈(陳長崎教授)

<「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない、いくつかの時代の史料が融合した可能性が高く、漢代・三国時代西晋時代の記述が混在している。・・・>

(↑ここまでが陳教授の見解で、以降はブログ主さん見解です)

<③「会稽・東冶の東」
魏志倭人伝では「邪馬台国」の場所について「会稽・東冶の東」としているが魏時代には呉の領域であって魏の知りうることではないので、この部分ついては漢代の史料からの引用である。・・・>

今なお、5世紀に書かれた「後漢書」は3世紀に書かれた「魏志倭人伝」を参考にしたという珍説が定説がごとく述べられているが、江戸時代の歴史書を書くのに明治時代の歴史書を参考にして「江戸」を「東京」と書き間違えるだろうか?子供だましのような珍説奇説を学会を代表する学者が唱えているのである。
後漢書」は、「東観漢記」という後漢時代に皇帝の命令で書かれた後漢時代を代表する歴史書があまりに詳しく細かいことまで詳細に書かれて読みつらく難解であったために文書を削り、先行して作成されていた魏晋時代の後漢書などを参考にしながらわかりやすく再編集した歴史書である。

➡この情報の出処については、前述のようにブログには記載がなくて、別途検索しても今のところ見当たりません。

ブログのコメント欄に「出処を教えて頂けるとありがたいです」との依頼をするなどして、今後も調査予定です。

また、番組の方の文字起こしを行ったブログが有るので参考にご紹介。

◆諸説あり・邪馬台国スペシャル | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

<◆諸説あり・邪馬台国スペシャル 2020-04-26  

(抜粋)

諸説3 中国の学者たちが断言・邪馬台国はここにあった ・・・

2人目に会いに中国沿岸部の大都市・上海
古代文字研究における中国唯一の研究機関。
そのトップを務める人物・ザン・コクワ教授。
古代中国に見識の深い、文字のプロフェッショナル。
漢字学の最高権威として、その名を知られる人物だ。
ザンさんに魏志倭人伝を解析し、邪馬台国の場所を特定してもらった。

漢字学の視点で読み解けば、邪馬台国の場所は九州北部である。
その視点は音である。
古代中国では、使者が他国から持ち帰った地名や人名などの漢字に意味はない。
ヤマタイコク」「ヒミコ」、重要なのは音。
つまり古代文字がどう発音されていたかということだ。
例えば魏志倭人伝には、邪馬台国までの道中に存在した国の名前が記されている。
音で読みとけば、末盧国(まつろこく)は長崎県の松浦であり、伊都国は福岡の糸島市のこと。
音が場所を特定する重要な手がかりとなる。
これは邪馬台国にも当てはまり、ヤマという音に着目すれば、九州北部一帯を指すと、ザン教授は言う。
当時、山の多い九州北部は、その地形から「ヤマ」と呼ばれており、中国の使者がそれを聞いて、近い音の漢字をあてたという。
ザン教授は、同じく漢字学を研究する大阪教育大学の張莉准教授の見解に注目する。
ヤマという地名は、縄文時代からあった古い地名で九州北部の広い範囲を示す呼び名だったというのだ。
魏志倭人伝の後に書かれた「後漢書」の倭伝でも、「山島におりて居をなす」と書かれ、山が多い地域と認識されてきた。
また、そもそも魏志倭人伝に書かれている国の数々は、いずれも九州北部にある。
ここから遠く離れた畿内邪馬台国があるのは不自然であると、ザン教授は言う。

3人目は中国南部広州にいた。
中国正史に精通し、魏晋南北朝史学会副会長を務める歴史学の権威、陳長崎教授
教授によれば、魏志倭人伝には、歴史書として大きな欠陥があると言う。
魏志倭人伝魏の時代について書かれた文章そのものではない、いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い
そもそも魏志とは魏・呉・蜀の三国時代から西晋の時代になって書かれたもの。
つまり後の世の歴史家が魏についてまとめたものとされている。
しかし陳教授の分析では、三国時代よりも古い漢の時代に関する記述が混在し、文献としての信憑性が疑わしいと言うのだ。
「1つの完成した史料とは言えず、部分部分で内容が矛盾している。1人の人物が書いたものではない」
実は長年の論争の原因となっているのは、魏志倭人伝の整合性の無さだった。
邪馬台国までの道筋が書かれた一文が、最初は千里・百里など距離で表すのだが、あるところを境に日数など時間での表現に変わっている。
このことから、異なる時代に書かれた記事が並んでいると指摘した。
邪馬台国の情報そのものが極めて少ない時代、正確さよりも分かっている情報そのものをかき集めて、盛り込まざるを得なかったのでは、と陳教授は言う。
では、陳教授の信頼できる部分から見て、邪馬台国はどこなのか。
邪馬台国の場所は九州が理に適う。
魏志倭人伝の後半に倭人についての話があるが、「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある。
つまり、邪馬台国の東には海があった。
畿内説ではこの条件と一致しない、だから、九州にあった。

最後に、古代日本にも精通する人物・台湾大学・周特望教授
距離の描写に疑わしい点がある。
国史に記載された距離を信じそのまま日本に当てはめてはならない。
周教授は距離よりも方角を頼りにすべきだと考えた。
「その道里を計るに、カイケイ、トウヤの東にある」
カイケイ、トウヤとは、現在の福建省の長江の出口あたりを指し、その東に邪馬台国があると考えられている。
周教授が見せてくれたのは、明の時代に書かれた中国最古の世界地図。
当時の日本は現在よりも南の位置、中国の真東にあると認識されていた。
実査には海流で北へ流され九州にたどり着く、当時の認識では長江の東は九州だった。
「女王・卑弥呼の居場所や邪馬台国は九州にあったはずです」

他にも根拠となる情報はあり、中国史で信頼できる情報をたどればいいという。
中国は漢代以来、ずっと敵国からの襲撃に苦しんでいたので、邪馬台国など同盟国についてはたとえ小国だとしても国の規模や軍事力、どんあ政治体制なのかを把握しておきたいもの。
さらに重要なのはその国の文化、これらについては正確に記述している。
なかでも注目いしたいのが、人々の暮らしぶりに関する記述。
記述を読むと邪馬台国には良い田がなく、皆海から採ったものを食べている。
もう一つ重要なのは、現地の人は顔に「鯨面」という入れ墨をしていたこと。
この風習は九州南方の民族である隼人あるいは 熊襲とも考えられる。
そして当時の畿内には、そのような風習は存在しなかったと周教授は言う。
さらに魏志倭人伝には邪馬台国の場所につながる重要な国の名が記されているという。
それは伊都国である。
伊都国は、現在の福岡県糸島市
卑弥呼が眠ると言われる平原王墓があり、当時一大率と呼ばれる役所が置かれ、外交を一手に担ったとされる。
周教授はこの伊都国こそ、邪馬台国解明の大きなカギだと言う。
魏志倭人伝をしっかり読むと、伊都国にあるいくつかの重要な官位の記載がある、「爾支」にきと呼ばれる官位があり、「副官」もいた。
加えて、「一大率」も置いている。
しかも代々「王」がいて邪馬台国に属していた。
これまでの魏志倭人伝の中の一大率の記述は知られていいた。
だが行政機関を担ったと思われる爾支という官職もあった。
そして副官の存在、さらに代々王有り
伊都国は、大きな権力を持った国だと推測されることから、邪馬台国はそんな伊都国のそばにあったと、周教授は考えている。
さらに、魏志倭人伝にはこんな記述がある「牛馬無し」
運搬や移動の手段である牛や馬が邪馬台国にはいない。
交通や連絡網が未発達だったことを考えれば、邪馬台国は伊都国の近くにあったはずだ。

遠く中国で解き明かされる邪馬台国の謎、中国の3人の権威が導いたのは九州だった。
邪馬台国は九州にあったのだろうか。

広州の陳教授には、諸説の続きがあった。
邪馬台国はもともと九州にあり、やがて畿内に移動した。
それと同時に地名も移動している。
陳教授が示した、この東遷説(地名の移動)は地名によって裏付けられる。
九州北部と畿内に同じ地名が見られる。
笠置山、三輪、朝倉、田原など、相当数が一致しており、しかも地名の配置までどことなく似ている。
このような地名の移動は、古代中国にもよくあったと陳教授は指摘する。>

➡以上のように、番組中では「通説批判」の見解表明までは有りませんでした。

youtubeにも番組から中国人学者の見解部分を抜粋した動画が有ります。

邪馬台国は九州にあった(中国の学者説) 「陳教授」の話はこの中

邪馬台国は九州にあった(台湾大学教授説)

以上