邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B021)日本書紀は「暦法2種類の切替わりがある」ことからの考察

wiki日本書紀」を次段に引用します。

要点は表を見て頂くと「A儀鳳暦とB元嘉暦が途中(5世紀のどこか?)で切替わっている」という事実です。

引用中でも述べられているように、7世紀に唐で作られた新しい暦法ある「A儀鳳暦」の方が、古い時期である「神武天皇から5世紀の途中」までの記述に用いられている逆転現象。

これは、古い時代の現実離れした長い天皇在位年数は、日本書紀作成に当たって実態とは違う時系列に作り直した結果である証拠になると推察します。

 

ーーーーー引用開始ーーーーー

日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている。しかし、儀鳳暦は7世紀にで作られた新しい暦であり、日本にもたらされたのは持統天皇代であるのに対し、元嘉暦は5世紀に作られた古い暦であり、時代の新旧が逆転している。このことから、『日本書紀』の暦日は古い時代、5世紀前半以前の時代のものは『日本書紀』編纂時に最新の暦であった儀鳳暦を使って推算したものであることが明らかとなっている

小川清彦が作表した『日本書紀』の暦日と、元嘉暦、儀鳳暦の暦日を示す表を元に、暦法の切り替わりを示す箇所を抽出したものを以下に示す。

この表に示される通り、垂仁23年、履中5年、欽明31年4月の「閏」字が筆写時に脱落したものと仮定した場合、4世紀頃以前の月朔の干支は儀鳳暦に、5世紀頃以降のそれは元嘉暦に一致する

当時既に『日本書紀』が指し示す紀年が古い時代において信用に足らないことは理解されていたが、儀鳳暦・元嘉暦を用いた小川の推算値と『日本書紀』記載の暦日は比較的高い一致を示した。年代が疑わしいものであるにもかかわらず、暦日の月朔がその疑わしい年代と良く合致することは、『日本書紀』の月朔が同時代史料の記載にあったものを写したのではなく、後世に設定された紀年に合わせて計算されたものであることを意味する

ーーーーー引用終了ーーーーー

 

結果的に、4世紀の日本書紀記述の時系列は細工(創作?)が行われていることが確実でしょう。

前記事(020)の追記で当方の推測を以下のように記載しました。

4世紀から細工されていたと想定すると、まさに神功皇后の時代に当たります。

代数や時系列が細工された結果で、平均在位年数が伸びている可能性が有るのではないかと考えます。

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(前記時追記より引用)

◆書紀編者が魏志との整合を取る目的で、「神功皇后卑弥呼の時系列に合わせるために、何らかの細工を入れているのではないか」
➡細工の影響が欠史八代卑弥呼共立前と推測)より後の崇神以降の天皇の代数にも影響していて、結果的に「平均在位年数=12.5年」になっているのではないかと推察しています
(つまり、細工無しだと10年に近づくのではないかという仮定...但し細工方法は分からない)
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なお、安本氏の計算(下図)によると、5~8世紀の天皇の平均在位年数=10.88年で、9~12世紀は同12.24年。
上記の12.5年でも合わなくはなさそうですが、段々平均在位年数が減少してきている傾向なので、やはり何か細工が有りそうな気もします(個人的推測)。
 

儀鳳暦と元嘉暦の使用年代については以下のような解説例が有ります。
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【精選版 日本国語大辞典「儀鳳暦」の解説】
上代に行なわれた太陰太陽暦の一種。李淳風(りじゅんぷう)によって作られ、唐の高宗の麟徳(りんとく)二年(六六五)に施行された麟徳暦が、儀鳳年間(六七六‐六七八)新羅(しらぎ)に伝わり、さらに日本にもたらされて、この名で呼ばれたものかという。
持統天皇四年(六九〇)に、元嘉暦(げんかれき)とともに行なう旨の記事が日本書紀にあるが、実際に元嘉暦と併用されたのは、六年(六九二)からであり、文武天皇二年(六九八)からは、この暦だけが用いられたともいわれる。
天平宝字七年(七六三)廃せられて、大衍暦(たいえんれき)がこれに代わった。
※書紀(720)持統四年一一月(北野本室町時代訓)「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳(キホウ)暦とを行ふ」
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日本書紀の成立は720年と伝わるので、編纂時は儀鳳暦のみ使用の時代と考えられます。
以上
[追記]
「元嘉暦」と「儀鳳暦」については以下のような論考も有り、更に検討予定。

天武天皇の年齢研究−元嘉暦と儀鳳暦

日本書紀の記述は、巻3神武紀~巻13安康紀までは、儀鳳暦(平朔法)で書かれ、巻14雄略紀~巻30持統紀最後まで元嘉暦で表記されたと考えます>

追記以上