邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B113)「通説」な方々たち(1)山尾幸久氏

山尾幸久氏「新版・魏志倭人伝」も「通説」であることが判明しました。

ただし、以下ののようになっていて、少し分かりにくくなっています。

(P25~)では、「范曄は先行してあったあまたの後漢書から自らの『後漢書』をまとめ上げた」との趣旨が書かれ、各先行後漢書の解説がなされています、その中には三国志の解説は全くありません。

しかし(P72~)では「(後漢書)の倭人伝は、直接か間接かはわからないが、『三国志』によるところが多い」といきなり書かれています(苦笑)しかも、「25ページ以下に示したように」(=上記A)と書かれているのに、前述のようにAには三国志の解説なし。

全くの矛盾と言うか支離滅裂状態に見えます。これを考えてみると、中国史書に書かれている「乃刪衆家後漢書、為一家之作」(宋書「范曄伝」)を理解していても、その上で日本での「通説」も述べようとすると、山尾氏のような矛盾が発生してくるのではないかと推察。

日本でのずっと後代の解釈(通説)より、中国史書の記述に依って考えるのが優先ということに気付かないぐらい通説の呪縛がキツいようです><

なお、[追記]に早稲田大学元教授の「福井重雅」氏の論文を添付します。

「定説(通説)」を綿密な論理で批判して、次のように明快な結論を出しておられます。

范曄はそれらの先行史料を利用して“修史”に從事すれば十分であって、わざわざ王朝や時代を異にする、後出の『三國志』を用いなければならない必要性や妥當性は、微塵もなかったのである。以上がこの論文の結論である。

後漢書に関して、「魏志依拠」の「通説」や、「魏志に依拠した部分も依拠していない部分もある」というような「中間的見方」の方々は、その見解を維持するためには、福井氏論文の「魏志依拠の必要性や妥当性は微塵もなかった」との趣旨の証明に対して、全面的な再反証が必須になって来るでしょう。

-----以下は山尾氏著作の原文引用-----(「福井重雅」氏論文はこの後の[追記]です)

A:P25~<范曄は、後漢を対象としたあまたある史書によって、みずからの後漢史をつくった。范曄の『後漢書』を読むうえで肝心な点がこれである。彼は後漢時代の古い記録を実際に調べたりはしていない。あまたの後漢史のいちばん最後にできたものなのである。・・・

范曄は、これらあまたの後漢史によって、みずからの『後漢書』をまとめた。なかでも大きな影響を受けたのは、①の『東観漢記』、華嶠の『漢後書』、衰宏の『後漢紀』であったという。范曄は、多くの学者を動員して各種の歴史書を調べさせ、煩雑な部分を削り、簡略な点は補充し、『後漢書』をまとめあげた。>

B:P72<25ページ以下に記したように、この本(後漢書)の倭人伝は、直接か間接かはわからないが、『三国志』によるところが多い。>



以上

[追記]

 

追記以上

(B112) 参考 高校日本史教科書 山川出版

歴史教科書で定評のある山川出版の高校日本史教科書も参考に掲載します(邪馬台国の前後も掲載)。

「山川出版キャッチフレーズ」

<定評ある山川の歴史書。「歴史書、教科書、学習参考書の山川」として高等学校の日本史・世界史・公民の教科書、学習参考書を始めとし、さまざまな歴史刊行物を出版>

→この教科書において当方で気付いた点は後の方のP20にある以下の2つの記述。

:<前期の前方後円墳の中でも最も古く規模が大きい箸墓古墳奈良県(大和)にある>

:<古墳時代前期には自然の丘陵を利用した前方後円墳が多く>

➡AとBは矛盾の関係になるでしょうが、それについては言及無し。

土木工事の規模が格段に大きくなるであろう平地からの盛り上げによる築造が一番初期に行われた。

箸墓古墳のこの特異性は、根本的な重要性を持っているに違いないと個人的に以前から考えて来ました。この教科書の記述で改めてそう思いました。

箸墓古墳とその後では、何か断絶や飛躍等の大きな変化があったのではないか。

それが何かは掴めていませんが、先ずは「魏志依拠の通説」が打破出来て邪馬台国論議が正常化した暁には、箸墓古墳の特異性の検討を多くの人が行うようになって貰いたいと期待しています。

 

(以下は山川出版教科書)

以上





















 

(B111) 「”後漢書倭伝は魏志倭人伝依拠”の通説」が崩れた場合の影響例(高校日本史教科書)

図書館に「教科書展示コーナー」が有ったので、各社の「高校日本史教科書」を見てみました。そうしたら、「通説」崩壊で影響を受ける記述が複数ありました。

清水書院」の教科書を例にとって今回は3点紹介。(当該教科書は[追記]に抜粋掲載)

①「通説」の記述

後漢書の倭に関する記述の多くは『三国志』による」と以下のように明記。

→これは「通説」崩壊の場合は修正必須。

ただし、他社は通説の記述が無く、「清水書院」・「山川出版」・「実教出版」・「東京書籍」・「第一学習社」とあった中で「清水書院」だけ通説の記述有り。理由は未把握。

後漢書「桓霊間」と魏志「七、八十年」

殆どの教科書で、「桓霊間」と「七、八十年」の両方記述有り、

→『後漢書』からは「中元二年・永初元年遣使」の引用と予想していたら、その後の「桓霊間倭国大乱」まで入っていました(上図上段)。

更に、「魏志倭人伝」の「住まること七、八十年、倭国乱」(上図下段)も記載されているため、「後漢書魏志依拠」なら冗長。(上図の実際の教科書上の配置は[追記]参照)

後漢書魏志依拠」が崩れると、この箇所のように「同じ事象に対して両書の記述に相違がある」場合は、どう解釈するか?の論議が必要になって来ます。

③「邪馬台国の位置論議」の重要性

各教科書とも同趣旨の以下のような記述で、「位置論議」の重要性を記述しています。

→間違った「通説」が崩れると、位置論議も進展が期待されます。

以上

「追記」

参考用に清水書院教科書から関連部を抽出して掲載します。

===清水書院教科書 邪馬台国関連部===

追記以上

(B110) 「魏志依拠」かどうかの三択とその影響について

(星天講@hoshisora_cさんとのX(旧ツイッター)での検討により)

後漢書魏志依拠かどうか?」について、三択で整理ることが出来ました。

後漢書に関する三択(57年107年遣使記事除く)

A:魏志に依っている(通説)

B:魏志に依っていない(支持例:当方)

C:魏志に依っている部分と依っていない部分が有る(支持例:星天講さん)

→ポイントは、今までの邪馬台国論議の重要な説は、基本的に通説Aに基づいているので、それがBやCになると成立しなくなること。

 

具体例として、邪馬台国論議の核心課題と言える行程記事を見てみます。

魏志倭人伝には行程記事(下表「イ」)が有ることはよく知られています。

→「イ」のうち、後漢書に関連記述が有るのは「イ」の最初と最後の以下記述だけです。

最初:從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

最後:自郡至女王國萬二千餘里

➡中間部分が無いことに関しては、A・B・Cによって以下のように考えられます。

◆Aの場合:

范曄は魏志を参照して「イ」の行程記事も見たが、(何らかの理由で)最初と最後だけ残して中間部分は省略した」という見方になるでしょう。

◆Bの場合:

→「范曄は魏志とは違う史料(有力候補は東觀漢記や華嶠書を始めとする衆家後漢書を見た」ことになります。そのため、「范曄が見た史料に行程記事が無かったから書かなかった(書けなかった)」と推定することになります

そして東觀漢記や衆家後漢書に行程記事が無かったと考えることは、後漢代には倭との交流が少なく情報が集まっていなかったという想定とも整合性が取れます。

◆Cの場合:

魏志以外に参照した史料が有ったと考えるのですから、その史料が何だったのか?ということが重要になります。

魏志に無い57年107年の後漢代遣使記事などが載っていたという想定になりますから、Bの場合と同じく後漢代成立の東観漢記やそれを基にした衆家後漢書になるでしょう。

前述のように、後漢代には魏志のような行程記事がまだ無かったとすると、Cの場合も後漢書に行程記事が無いのは、魏志からの省略では無く、范曄が参照した後漢代原史料には行程記事が無かったから書かなかった」と考えるのが適切になります。

後漢書を以下に示します。行程記事は赤字部分であり、魏志に比べて遥かに少なくなります。(「其大倭王居邪馬臺國」は魏志にもない表現であり、慎重な検討が必要と考えていて、文末の[追記]で少し言及します)

 

➡結果的にBではなくCであっても、「後漢書に行程記事がないのは後漢代原史料に行程記事が無かったから」と考えることになります。

これの影響を考えてみると、核心として以下が有ります。

後漢代の倭の中心地」を考えるには、後漢書の記述に依って考えることになり、魏志の行程記事は使えなくなる

→ただし、「対馬海峡を渡った」のは確実と考えてよいでしょうから(出雲方面などは遠すぎる)、後漢代でも対馬壱岐は経由地になります。

しかし、それ以外の国々などは、後漢代では魏志倭人伝の記述とは相違していた可能性が出て来ます(卑弥呼初回遣使は230年代頃で、後漢代の遣使は例えば107年遣使を考えたとしても、100年以上の年代差が有り、その間には大乱・共立もあったので、国々の構成などにも大きな変革が有ったのは確実でしょう)。

魏志倭人伝の行程記事の多くの部分が、後漢代においては使えなくなる可能性が高いとなったら、邪馬台国論議に大きな影響が出ると考えます。

 

なお、内藤湖南氏は「范曄は魏略も参照しており、魏略に57年107年記事が有ったという推定」をしました。[追記2]に湖南氏の論考を引用します。

しかし、その推定の根拠は以下のようなものです。

(1)魏略は、裴松之が「西戎伝」を引用しているように、後漢代から詳述している

(2)魏志は、「烏丸鮮卑伝」のように、基本的に後漢代の記事は省略している

(3)結果的に、「魏略には後漢代遣使記事が有ったが、陳寿が省略した」と推定

➡湖南氏の実際の文章は引用に有るように、後漢書の此條(57年107年遣使)は、三國志には據(よ)らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如しと、「疑うべからざる」とまで書いています。それに対しては、魏志が基本的に後漢代を省略しているのは事実でも、遣使記事が魏略に有ったという根拠は無く、相当強引な推定と言わざるを得ません。

ただし、魏志倭人伝に「漢時有朝見者」と有るのは、陳寿が57年107年遣使記事を見ていたことを表していると考えるのは妥当でしょう。しかし、この遣使記事は後漢朝の公式記録であることは間違いないですから、「東観漢記」に記録されていたものということになります。

そして、「東観漢記」の逸文を見ると、”後漢書に「東観漢記」からの記述が有る”ことが書かれています。また、同様に華嶠「漢後書」からの記述も有ります。

結果的に、范曄は「東観漢記」や「漢後書」を参照していたので、わざわざ「魏略」を経由して後漢代情報を知る必要は無かったと考えるのは妥当性が有るでしょう。

湖南氏の「魏略から採った」という推定は無理が有ると言わざるを得ません。

(このような無理な推定になったのは、「成立年代」が大きな理由と思いますが、范曄が「後漢代原史料」を参照していたと考えると、後漢書魏志の成立年代の逆転の影響は解消されます)

以上

[追記1] 「其大倭王居邪馬臺國」について

「女王国」とは書いていないので、「男王」の国と考えることになりそうです。そうなると卑弥呼共立(180年頃?)より以前のことになります。しかし(大)乱→共立で支配領域が広がったのは確実でしょうから、それより前に「倭王」が支配していた国が有ったのかどうか。

個人的には疑問と思っています。しかし「大倭王」を普通に考えるような”「大+倭王」ではない”と考える説もあります(例えば魏志倭人伝の後の方に出て来る「大倭」と絡めるなど)。

結局は、まず「魏志非依拠」の認識に立った上で、「大倭王はどの時期の情報か?」ということを改めて考える必要がありそうです。

 

[追記2] 内藤湖南卑弥呼考」抜粋(青空文庫より)

卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書三國志との間に存する※(「止+支」、第3水準1-86-36)異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。

三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。
 今先づ單に其の先出の書たる理由によりて、左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。

(ここに魏志倭人伝の全文が引用されている...内容省略)

この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡海千餘里。復有國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。

倭在韓東南大海中。依山島居。凡百餘國。自武帝朝鮮。使譯通於漢者。三十許國。

 三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへるは魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。

樂浪郡徼去其國萬二千里。

 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡のより起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

其地大較在會稽東治之東。與朱崖※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)相近。故其法俗多同。

 三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。是れ改刪の際に起れる疎謬なり。

城柵屋室。父母兄弟異處。

 三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一條に在り。云く

女王國東度海千餘里。至拘奴國。雖皆倭種。而不女王

 三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、※(「隱/木」」、第4水準2-15-79)括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち

又有夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)。傳言秦始皇遣方士徐福童男女數千人海(中略)所在絶遠。不往來

の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※(二の字点、1-2-22)明白なり。
 但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々

 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。

附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。

 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。

追記以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(B109) 各書の「使用語句の新旧」について

たまたま検索で以下の論考が出ました。当方にとっては掘り出し物でした。

”「邪馬壹国の方法」と新たな展開” 鎌倉市 大墨伸明

➡当方で考えていた「史書ごとの使用語句の違いによる年代順」の推定に、そのまま使えるという点で掘り出し物でした。

上表の下部欄外に著者のコメントが有りますが、例えば烏桓と烏丸」は、「烏桓」の方が古い時代の呼び名で、「烏丸」の方が新しい呼び名ではないか。こう推定すると、「烏桓と烏丸」の使用割合は時代を表すのではないか。それを表に赤矢印等で追記しました。

そして「高句麗」等も同様に時代順の推定に使えそうなことが分かりました。

これは後漢書の内容の方が先に成立(=後漢代原史料があって范曄はそれを参照)を表していると考えます。

その上で、上表は「漢書後漢書三国志」の並びですが、「漢書三国志後漢書」に入れ替えると矛盾が出てくると思われます。「烏桓と烏丸」を例にとると、「漢書三国志」で「烏桓→烏丸」に変化して、次に「三国志後漢書」で「烏丸→烏桓」に又戻るということで、考えにくいのではないか。

魏志非依拠」の証明の強化に使えそうです。「魏志非依拠」が真相であるため、真相に合致する事実関係は色々出てくると考えています。

 

なお、この論考には9頁目ぐらいに以下の表も有り、非常に詳細です(「壹と臺」に関する著者の考察自体は、古田武彦氏の影響を受けておられるようで、疑問有りです)

”中国における邪馬壹(臺)国の表記とその音”

以上

(B108) 白鳥庫吉氏見解「”極南界”は范曄の誤解」への疑問

前記事の内藤湖南氏と論争を繰り広げた「白鳥庫吉」氏の見解についても、改めて見てみました。見解が記載されている論文の抜粋を後方に添付します。

 

抜粋でも長く、突っ込みどころと思える箇所が複数あります(苦笑)

その中で一番気になった記述を更に抽出。

魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり其徴は同書倭國傳に

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

・・・故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之を女王國の極南界即ち倭國の極南界にありと見たりしなり>

➡白鳥氏は”「倭國之極南界也」は范曄が(誤解による)自分の解釈を付け加えた”と考えているように見えます。

その場合、有名な以下の文章には范曄の創作(「倭國之極南界也」)が入っていることになります。

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

→遣使記録に、このような創作を入れたのでしょうか???

実際は、この文章は「倭國之極南界也」までが後漢朝の公式記録に有ったもので、范曄の創作とは思えないと当方は考えます。

つまり、実際に「極南界かどうか」の前に、”後漢朝の公式記録と思えるものに范曄が自らの創作で追加を行ったと考えるかどうか?”が、まず課題になるという想定です。

この点に関する専門家の見解はどうなっているのでしょうね???(今まで「創作」としている見解は、個人ブログ等を含めても見ていません)

 

以下は白鳥氏の当該論文の抜粋です。

-----倭女王卑彌呼考 -----

それ既に里數を以て之を測るも、又日數を以て之を稽ふるも、女王國の位置を的確に知ること能はずとせば、果して如何なる事實をか捉へて此問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通讀玩索し、而して後漸く爰に確乎動かすべからざる三箇の目標を認め得たり。然らば則ち所謂三箇の目標とは何ぞや。

曰く邪馬臺國は不彌國より南方に位すること、

曰く不彌國より女王國に至るには有明の内海を航行せしこと、

曰く女王國の南に狗奴國と稱する大國の存在せしこと即ち是なり。

さて此の中第一、第二の二點は『魏志』の文面を精讀して、忽ち了解せらるるのみならず、先輩已に之を説明したれば、姑く之を措かん。然れども第三點に至りては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにも拘らず、余輩が日本學會に於て之を述べたる時までは、何人も嘗てこゝに思ひ至らざりしが故に、又此點は本論起草の主眼なるが故に、余輩は狗奴國の所在を以て、此問題解決の端緒を開かんとす。

・・・

此の如く從來の學者が狗奴國を九州以外に置きて毫も之を怪まざりしは、『魏志』の本文を精讀せずして、專ら『後漢書』の文面に信頼したるに因るなり。學者若し余輩の言を疑はゞ試に左に引用する『魏志』の本文を熟讀せよ。

自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國、遠絶不可得詳、次有斯馬國、(中略)次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、(中略)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里、又有裸國黒齒國、復在其東南、船行一年可至。

 此の中「女王國東渡海云々」以上の文意を案ずるに、末盧、伊都、奴、不彌、投馬諸國の戸數道程は前文の如く之を略載し得べけれども、其餘の傍國に就いては、詳なること知るべからず。然れども斯馬國以下奴國に至る十七ヶ國ありて、

而して奴國は女王界の盡くる所に位す。

又女王國の南には狗奴國ありて、男子を王とし、女王に屬せず、と云ふ趣に解せらる。されば倭國即ち九州の全部は、女王の所領にあらずして、その南部は狗奴國の版圖に屬せしなり。然るに後漢書』の編者范曄は上段掲載の文面に據り、而も大に之を省略して、左の如き文をなせり。

自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王、自女王國南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺、自朱儒東南行船一年、至裸國黒齒國、使驛所傳極於此矣。

 後漢書』の此文を以て『魏志』の本文に對照するときは、前者が後者を剽竊踏襲したる形跡、顯然とし亦敝ふべからず。然るに獨り怪むべきは、後漢書』が『魏志』の原文に女王國の南にありとせる狗奴國を擅に移して、女王國の東方千餘里の處にありと記せる倭種の住地に置かるること是なり。これ正しく原書の意と背馳し、誤謬を後世に傳へたるものと謂ふべく、本朝の史家が女王國の方位に就いて正當の解釋を得ざりしは、全く此曲筆に基く。然れども更に之を考ふるに、『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは、決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、實は范曄が『魏志』の本文を誤解したるに因るなり。然らば編者は如何に此の本文を誤解したるかと云ふに、『魏志』に女王國より以北にある國々の戸數道里は略載すべしとあるに誘はれて、其下文にその餘の旁國遠絶にして詳に知るべからずとあるを、ひたぶるに女王國以南の國々と思ひ込みしなり。魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり其徴は同書倭國傳に

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

とある是なり。此の倭奴國は三宅博士が既に説けるが如く、伊都國の東なる奴國即ち國史の儺縣なるを、范曄は『魏志が旁國として列擧せる十七ヶ國の末尾に見えたる奴國と誤解したるなり。故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之を女王國の極南界即ち倭國の極南界にありと見たりしなり。編者已に奴國を倭國の極南界にありと思惟せしかば、『魏志』に、「其南有狗奴國」とある文面に逢着して、狗奴國の方位遂に解すべからざることとなりぬ。因て范曄は之を以て陳壽の誤謬と斷定し、適※(二の字点、1-2-22)魏志』の下文に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とあるに思ひつきて、狗奴國を之と連結せしめ、「自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある文を結構せるなり。『魏志』の文を熟讀するに、漢魏時代に倭國と云ふは主として九州地方を指ししものにて、此島より以東に位する四國あたりは、未だ倭國の範圍に包含せしめざりしものの如し。さればこそ上文に見ゆる如く「復有國、皆倭種」とのみ云ひて、其國名を擧げざりしなれ。故に女王國の東なる倭種の國より以下裸國黒齒國の事を記せる一段は、已に倭國即ち九州に據れる女王國及狗奴國の事を敍し去りし後に、其處より絶遠なる國々の事を附記せるなり。倭國即ち九州内に於ては魏使が通行せし沿道の國は更なり、絶遠の國々と雖も、猶其名稱だけは聞き傳へたれど、女王國の東方千餘里の外に僻在せる孤島に就いては、其の住民の倭種たるを幽かに聞き得たるのみにて、其國の何と呼びけん、名稱さへも定かに知られざりしなり。

之に反して狗奴國は倭國の南部に據りて、女王國と土壤を接したればこそ、其王の卑彌弓呼たることも、其官の狗古智卑狗たることも、また其國が女王國と相攻伐したることも、よく魏國に知られたるなれ。此の如く魏人に熟知せられたる狗奴國を以て、王名官名は更なり、國名さへも知らざりし、東方絶遠の倭種國に當てたる『後漢書』の著者は、全く『魏志』の文面を了解せざりしものと謂ふべし。
 若しも以上の推論に誤謬なしとすれば、後漢末より三國時代に亙りて、倭國即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王國の所領とし、南部は狗奴國の版圖として、兩々相對峙し久しく相讓らざる形勢をなししなり。然るに魏の正始八年に至り、女王國と狗奴國との間に戰鬪起り、女王卑彌呼は此亂中に沒したりと見ゆれば、此戰爭が女王國の敗北に終れることと察すべし。狗奴國が倭國の南部に據りて、而も此の如く強勇なりしを以て之を觀れば、此國こそ實に國史の所謂熊に當つべきものなれ。而して熊襲の領土は大隅を中心として、薩摩日向の大部分を包括したれば、三國時代に於ける狗奴國の境域も、殆ど之と同一なりしと見て不可なかるべし。從つて此國と對抗したる女王國の領地が豐、肥、筑前後六國に跨りたること亦察するに難からず。而して女王の都邪馬臺國の位置は此形勢に鑑み、又『魏志』に載する所の里數、日數及行路の状況を參酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて斷言し得る所なり。

・・・

(この後も行程の話が長く続いています。なおその中に「魏志』に一月とあるは一日の誤寫なり」も書かれています

以上

(B107) 内藤湖南氏見解「後漢書の遣使記事は魏略に依った」への疑問

内藤湖南氏は「卑弥呼考」で「後漢書倭伝の遣使記事は魏略に依った」との見解を述べています(該当箇所抜粋を後方に添付)。

しかし、後漢書の遣使記事は、倭伝だけでなく本紀にもあります。

それには「月」などの倭伝に無い情報もあります。

魏略には本紀に相当する情報も有ったのでしょうか?

魏略には後漢代情報もありますが、後漢代前半の本紀の内容まで採録していたでしょうか???

それは考えにくいと思われ、「湖南氏の検討不足」と想定するのが妥当ではないかと思えます。

ただし、大家がそのような単純ミスをするか、という違和感もありますが、湖南氏の記述と魏略の事実関係等を率直に見て行くと、湖南氏のミスの可能性大と推察せざるを得ないと思っています。

 

後漢書の遣使記事を付けます。

◆57年遣使

本紀(光武帝紀):(中元)二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。

東夷列傳:建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

◆107年遣使

本紀(孝安帝紀):(永初元年)冬十月,倭國遣使奉獻。

東夷列傳:安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

 

湖南氏見解部分の抜粋添付。

-----内藤湖南卑弥呼考」抜粋-----

一、本文の撰擇

 卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書三國志との間に存する異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。

・・・

但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々

 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。

附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。

 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。

以上

[追記]

湖南氏見解は他にも無理筋が色々あります

例<靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり>

→「靈帝光和中⇒桓靈間」への変更は、どのような効果が有ると湖南氏は見るのでしょうか???

結果的には、湖南氏の方が妄想に見えてしまいます。

追記以上