邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B061)後漢書「韓伝」の李賢注と魏志「韓伝」の比較

「韓伝」も『後漢書』と『魏志』で比較する予定なので、まず『後漢書』韓伝を見たら、以下の李賢注は『魏志』との比較になっていることに気付きました。

李賢注<魏志曰:「諸國各有別邑,為蘇塗,諸亡逃至其中,皆不還之。蘇塗之義,有似浮屠。」>

→『後漢書』には <諸亡逃至其中,皆不還之。蘇塗之義,有似浮屠。>の部分がないのを李賢が補っています。

これが有ると無いとでは「蘇塗」に関する認識が変わって来ます。

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◆(解説例) 「浮屠」に関する「知恵袋」

Q:馬韓の条の一節

「諸国には、おのおの別邑あり。名づけて蘇塗(そと)となす。大木を立てて、鈴鼓を懸け、鬼神に事う。諸亡逃して其の中に至る。皆これより還らず。好んで賊を作る。その蘇塗を立つるの儀、浮屠(ふと)に似たる有り。しかして所行善悪の異る有り。」

これはどういう意味ですか?逃亡者をかくまうのですか?

A:・・・神社の禁足地と同じように、蘇塗の立てられた領域が聖域とされて、捕縛する役人が入れなかったのだと思います。縁切り寺に逃げ込んだら、夫が来ても渡さないのに似た治外法権の土地だったのでしょう。庇護を求め神の聖域に逃げ込んだ者は、その神に許可なく捕えることはできないという慣習は、世界に広く存在しています。

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「聖域」や「治外法権」の話で中国の人にも興味を惹くと思われ、范曄も省略しなくても良さそうですが、「魏志依拠」説では「范曄の節略」という見解になるのでしょう。

しかし、常々思っている「陳寿の文章への違和感」が、この部分の前後文章でも如実に出ていました。

両書の該当部分を後方に示します。

①②は当方付与ですが、後漢書では①②は続きなのに、魏志では①②が離れていて、間には①②とは関連が無さそうな話が並んでいます。

「文脈を読む」ということが言われますが、まさに「文脈を読めば陳寿の文章のおかしさはすぐ分かる」と思うのですが、邪馬台国論議の中で見過ごされて来たようなのは残念に思っています。

また、最後のところでも、魏志「…其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身」と後漢書其南界近倭,亦有文身者」を比較すると、「陳寿の文章の脈絡のなさ」が明確に表れていると思います。

後漢書 韓伝

馬韓①知田蠶,作綿布。②出大栗如梨。有長尾雞,尾長五尺。邑落雜居,亦無城郭。作土室,形如冢,開戶在上。不知跪拜。無長幼男女之別。不貴金寶錦罽,不知騎乘牛馬,唯重瓔珠,以綴衣為飾,及縣頸垂耳。大率皆魁頭露紒,布袍草履。其人壯勇,少年有築室作力者,輒以繩貫脊皮,縋以大木,嚾呼為健。常以五月田竟祭鬼神,晝夜酒會,群聚歌舞,舞輒數十人相隨蹋地為節。十月農功畢,亦復如之。諸國邑各以一人主祭天神,號為「天君」。又立蘇塗,建大木以縣鈴鼓,事鬼神。其南界近倭,亦有文身者。

魏志 韓伝

馬韓在西。其民土著,種植,知蠶桑,作緜布。・・・

其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室,形如冢,其戶在上,舉家共在中,無長幼男女之別。其葬有棺無槨,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠為財寶,或以綴衣為飾,或以縣頸垂耳,不以金銀錦繡為珍。其人性彊勇,魁頭露紒,如炅兵,衣布袍,足履革蹻蹋。其國中有所為及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以為痛,旣以勸作,且以為健。常以五月下種訖,祭鬼神,群聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人俱起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦復如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗,大如梨。又出細尾雞,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。

以上

[追記]

hyenaさんは以前から、韓伝に魏志引用の李賢注が有ることを指摘しておられました!

李賢は魏志をみている!

<『後漢書』李賢注といえば、「倭伝」の【案今名邪摩惟音之訛也】がすぐに思い起こされるが、実は李賢は『魏志』(『蜀志』『呉志』も)を附注に用いている。

「東夷列伝」で言えば、「扶餘伝」「東沃沮伝」「韓伝」でも引く。>

追記以上