邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B119) ”纏向遺跡大型建物と箸墓古墳の配置は都(みやこ)の都市計画だった”仮説

アヂ@csagevさんから吉備について以下のコメントを頂きました。

吉備分裂自体は2世紀末か2世紀いっぱい(〜庄内式前半)と考えます。AD200前後には最初に瀬戸内と南関東(廻間I式末〜II式初)で前方後円墳が出現し、吉備の纒向型前方後円墳と大規模な弧帯文様の変化を経た宮山式、矢藤治山式の出現が庄内式後半併行で卑弥呼共立後と考えられ3世紀初頭〜前半です。

→当方も吉備に大きな関心を持っていて、アヂさんの知見と考察に納得性を感じました。この件も深掘りしてみたいのですが、その前に「吉備の後のどこかの時期に倭の中心となった」ことが確実な纏向遺跡について先に当方の考えを述べておきます。

 

纏向遺跡箸墓古墳の配置を見てみます。

纏向遺跡の大型建物(纏向遺跡調査報告では「居館域」とされています)の柱列の中心軸を延長すると、箸墓古墳の後円部の中心付近に至ります。

→どれぐらい中心と合ってるかは、いつか測量してみたいと思っていますが、写真で見るだけでも「偶然の一致ではない」ことが見て取れると思います。

つまり、纏向遺跡が都(みやこ)跡と想定すると、都の南側に正確に箸墓古墳が配置されていることになります。

結果的に、当時の人たちが都の都市計画を作って、大型建物(居館)と箸墓古墳を配置したことを(当方として)推測します。

後の考察は写真3枚の後に又記しますので、先ずは写真をご覧ください。(上掲の「纏向遺跡調査報告にも居館域の詳細な図が有ります)

手前の建物跡の「柱の並びの延長線」と、一番奥に見える「箸墓古墳の後円部の中心」がピタリ合っています。

この配置が重要と考えるのは、「大型建物と箸墓古墳は都市計画で関連しているので、両方は同時期か、余り時期的に離れずに築造されたのではないか」という推定が出来るからです。

このため、「大型建物の築造時期が概ね判明すれば、箸墓古墳の築造は余り離れていない時期に行われたと推測可能」になります。

箸墓古墳は発掘不可ですが、大型建物はそうではないので、結果的に箸墓古墳の築造時期の検討がしやすくなります。

実際に「桃の種」で時期推定が行われています。

纒向遺跡:測定した教授「集大成」 モモの種年代測定 | 毎日新聞

(桃が)実った時期は、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と重なる西暦135~230年の間

→この居館築造推定時期と、「箸墓古墳」の築造時期が離れていないと考えることが可能というのが当方着眼点です(他にも同様着眼の方はおられると思いますが)。

ただし、桃の種の年代測定も確実と言えるのかという課題提起も有り、上記記事の中でも、そのことに言及があります。

それでも科学的に一定の根拠を持つ推測であり、また上記の「纏向遺跡調査報告」には「遺構の切り合い」や各種出土品の考察もあります。

これらの総合的検討が進んでいくことにより纏向遺跡の築造時期の特定が進んでいき、箸墓古墳の築造時期推定にもつながると思います。

特に「箸墓古墳の築造が三世紀と推測できるようになるかどうか」だけでも、一つの大きな段階になります。

というのは例えば「安本美典」氏の「邪馬台国九州説」では、九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に入り、巨大古墳などを作ったという主張になります。

そして東遷に時間が必要なため、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の築造時期が三世紀では具合が悪く、考古学者の斉藤忠氏の説「4世紀中ごろ」を引用しています。

(当方ブログ(B007)安本美典氏の説についてで言及)

→安本氏ご自身の見解は「箸墓古墳の築造は4世紀」のようですが、当方着眼からの「三世紀」とどちらが確実性があるか。

このような検討を他の諸説についても行って行けば、数多ある邪馬台国論議の説の絞り込みに繋げて行けると想定しています。

以上

[追記]

後漢書光武帝記記述からの考察

「(中元)二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷奴國王遣使奉獻。」

→倭使者もこの時に「郊祀」の祭礼と見たと推測できるでしょう。

「郊祀」の説明(ブリタニカ国際大百科事典)

<古代中国の天子が,柴を焚いて,冬至には国都の南郊で天を夏至には北郊で地を祀った大礼。天を祀るには円丘の壇を,地を祀るには方形の壇をつくる。帝王の威厳を示すもの>

→使者が倭に戻って報告し、倭の人も「郊祀」を知り、「倭でもやってみたい」というような気持ちは起きたのではないか。

しかし中国との国力の違いや宗教的成熟度の違いなどから、倭では、なかなか出来なかったことが推測されます。

それが卑弥呼共立で国のまとまりが進展して、国力が飛躍的に上がったと思われる纏向遺跡の頃に、それまでよりずっと規模の大きな都を造って、「郊祀」もようやく実現できるようになったのではないか(その前に小規模なものは有ったかも知れませんが)。

しかも、本文で説明したように、都の中心に有ったと思われる大型建物の南の線上に箸墓古墳の円丘の中心が有ります。「南に円丘の壇」と解すれば「郊祀」の説明に合致と思えます。(話が出来過ぎなぐらいにピタリ合致しています)

更に大胆予測すると、下図に示すように箸墓古墳と大型建物を結ぶ線」の延長線上の北方には「方形の壇」の土台などが埋まっているのではないか。(今後いつの日にかに偶然に発見されないか密かに期待w)

→なお、大型建物と箸墓古墳の配置の関連性については、「苅谷俊介」氏が当方よりずっと前に説を出しておられました。細部では当方と違う所もありますが、全体的に非常に緻密で素晴らしい考察と感じています。

今後の記事で苅谷氏説を取り上げる予定です。

以上

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 





 

(B118) X(旧twitter)で提示が有った資料に基づく検討(暫定)

X(旧twitter)で提示が有った資料から考察してみました。

テーマは「倭国の範囲の時代的拡大」です。

■「RTbotと化したひさし」さん資料

抽出

<・九州の記述が多い割に、近畿周辺の記述が少ないように見える。
 邪馬台国が近畿ならもう少し記述があってもいいのでは?>

後漢書記述

楽浪郡徼去其國【萬二千里】→「楽浪郡⇔倭」=萬二千里

◆去其西北界狗邪韓國【七千餘里】→「楽浪郡⇔狗邪韓國」=七千里

⇒上記に加えて地理的に以下距離

対馬海峡旅程「韓国南岸⇔対馬壱岐⇔九州北岸」=三千里

➡九州北岸から倭までの距離は以下計算

◆1万2千里-(7千里+3千里)=2千里

→地図に記入してみます(短里相当換算・・・”1里=75m” ⇒ ”2千里=150km”)

→「後漢代の倭の中心地は概ね、この円内に有った」と推測してみると、それらしい感じ(苦笑)がしてきませんか?

ただし、後漢代は、ほぼ2世紀分の期間があります。

その間に倭の直接的な情報が後漢朝にもたらされたのは、57年と107年遣使になるでしょう。

後の時代の方が地理把握の精度が上がるのは確実ですから、後漢書記述の上記「萬二千里と七千里」は107年遣使の使者情報に依っていると考えてみます。

また、上掲地図の円内に倭の中心地が有ったとして、それは「地理的な倭の中心」とは限りません。

倭の範囲は徐々に東に拡大して行ったと推測するのは妥当と思われますから、東はまだ余り広がっていなかったとすると、仮に地図の円内を「倭国の範囲」と考えたらどうでしょうか。

これが冒頭テーマの「倭国の範囲の時代的拡大」につながります。

それは「倭」と「倭国」をどう考えるか?に影響を受けます(「倭人」もありますが)。

「倭」の方が漠然としていて、「倭国」は範囲や領域という言葉と馴染みやすくなるのではないか。

そして「倭国の範囲は時代と共に東に拡大して行ったのではないか」。

109年頃が上掲地図円内とすれば、次の大きな時代的区切りになると思われるのは「桓霊間倭国大乱」が有ります。

これを概ね180年ごろと仮定すると、107年頃から更に倭国の範囲が拡大して行って、「180年ごろ(倭国大乱頃)の倭国の範囲」はどうなっていたか?を考えるのは意味が有ることと思います。

そこで、「楊堅」さん提示の「通史」案を見てみます。

→”倭国大乱時には「吉備」が中心であった”と想定しておられると思えます。

当方も同様の構想が有ります。

結果的に107年遣使以後に倭国の範囲拡大が進展して、吉備方面が中心になっていたのではないか(考古学的にも吉備の「盾築遺跡」や「特殊器台」などが注目されます)。

そこからざっと飛ばしますが、その後卑弥呼の遣使の三世紀前半頃からは纏向が中心になっていたと推察。

暫定考察として1回目は以上です(2回目はいつになるかはまだ分かりませんが)

(B117) 博物志との比較で見えた魏志の沃沮伝説記述における誤解の発生(続)

前記事の[追記]に記載したブログ「三国与太噺 season3」の考察が優れていると感じたので、詳細を見てみました。(「与太噺」と謙遜しておられますが、かっちりした構成になっています)

 張華『博物志』と陳寿『三国志』における文章合致 

(引用している博物志の)段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます

→この推測は正しいと感じます。

そして段落Bに以下のように「毋丘儉遣王頎追高句麗王宮」が入っています。

毋丘儉遣王頎追高句麗王宮、盡沃沮東界。問其耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七夕取童女海>

→この段落Bだけが「王頎」が聞いた話という位置づけと思えます。

そして、魏志では先に段落Bが記載されていて、続いて以下の段落Aが記載されています。

<有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長二丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其地皆在沃沮東大海中。>

→この段落Aの多くは「王頎」が聞いた話とは別に得られていた沃沮の伝説と推察します(後述)。

結果的にhyenaさんの見立て「伝説に王頎が聞いたという話追加」の蓋然性が高いと感じます。

つまり、王頎(や部下ら)が「又」でつないで複数ある伝説を全部採取したと考えるのは蓋然性が低いと思えます(彼らは遠征軍であって、博物調査隊ではない)。

なお、魏志では以下のように段落Aと段落Bが一続きになっていますが、その中で「」で始まる話と、「說(得)」で始まる話が有ります。これは「言」の方が「王頎の問いに答えた」という意味になるのではないかと考えてみています。そして博物誌の中の「説(得)」で始まる話は、旧来の古伝説ではないか。
但しこの分類の明快な証明は難しいですが、文言の違いが有るのは事実で、その違いに何か意味が有ることは考えられるのではないかと思います。

魏志毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、……王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七月取童女海。
 又有一國亦在海中、純女無男。又一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長三丈。又一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

→このようなことをブログを見て考えたので、メモとして残します。

また、今回の「三国与太噺 」さんブログ考察はここまでにしますが、同ブログの別記事には以下も有ります。

張華『博物志』の佚文「沃沮の女國」

<『三国志』との比較のため、『博物志』原型の文章を探さないとなーって思っていましたが、果たしてそれらしいものが『太平廣記』四百八十巻蛮夷にありました>

→いずれにせよ前述のように、「複数記述されている沃沮の伝説が、全部王頎が聞いた話ではない」という分析を考慮することは重要と思います。

 

なお、本記事の[追記1]では、後漢書との「復有面」の位置の違いを少し取り上げていますので、興味ある方はご覧下さい。

 

-----ブログ引用開始-----

三国志東夷伝東沃沮
 毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、……王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七月取童女海。
 又言有一國亦在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

『博物志』卷二、異人(A段落)
 有一國在海中、純女無男。又說得一布衣、從海浮出、其身如中國人衣、兩袖長二丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得、與語不相通、不食而死。其皆在沃沮東大海中。

『博物志』卷二、異俗(B段落)
 毋丘儉遣王頎追高句麗王宮、盡沃沮東界。問其耆老言、國人乘船捕魚、遭風吹、數十日、東得一島、上有人、言語不相曉。其俗常以七夕取童女海。

 両者を比較し、字句が異なる箇所は赤字に、一方にしかない字句には青字にしてみましたが、極めて文章が近しいことがわかります。

 これは『三国志』が『博物志』を参照したがために起こったことなのでしょうか?
それとも『博物志』が『三国志』を参照したのでしょうか?
 はたまた、『三国志』『博物志』は親子の関係ではなく、とある資料を共通して参照していた兄弟関係にあるのでしょうか?
 なぞです。

 となると、現行の『博物志』の文章を『三国志』と比較してもあんまり意味ないです。
 実際、上記で引用した段落Aと段落Bをそれぞれ見てみますと、どうやらこれらも佚文を改変した上で収めた物のようです。どうも、段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます。

 まずA段落冒頭「有一國亦在海中、純女無男。」にある「」です。現行『博物志』でこの文章の周辺を参照しても、この「亦」が受けているような内容は見当たりません。なのでA段落の前には本来何らかの文章があったのではないでしょうか。

 同じくA段落の最後「其地皆在沃沮東大海中。」の「其地皆」ですが、A段落において説明されている土地は女國のみであり、「皆」という語を用いるのは不自然に感じます。 

 またB段落「問其耆老言、」という文辞もいささか変ではないでしょうか。「その耆老に問い(耆老が)言うならく」とでも書き下すのでしょうが、しかし「言」の主語がやや迷子です。本来あったはずの語を削った為にこうなったのではないでしょうか?なお『三国志』の同じ個所が「問其耆老「海東復有人不?」耆老言、」とするのは自然に読めます。
 
 以上の理由から、おそらく原型は『三国志』のそれに近いもので、現行『博物志』は佚文を拾ったために、二つの別々の段落に分かれてしまったのでしょう。
 では現行『博物志』はこの佚文をどこから拾ってきたのでしょう?『御覧』あたりでしょうか?

-----ブログ引用終了-----

以上

[追記]

博物誌・魏志「項中復有面」

後漢書   「頂中復有面」

➡もう一つの顔のある位置が、「項(うなじ)」と「頂((頭のてっぺん))」の違いが有ります(意味は「漢字ペディア」参照)。

どちらが正しいかは微妙で、今のところは判定が難しいです。

追記以上

 

 

(B116) 博物志との比較で見えた魏志の沃沮伝説記述における誤解の発生

魏志の沃沮伝で、以下のように「毌丘儉」の遠征を書いた記事が有ります(改行と番号付与は当方)。

毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?

耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。

又言有一國亦在海中,純女無男。

又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。

得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

➡この魏志での分類①~④を基に、博物志・魏志後漢書の三書での比較を下表に示します(三書の当該部分は後方に引用記載

➡比較で見えて来たことを列挙。

1.博物志と魏志は①~④が揃っていて記述内容もほぼ同じです。

 →博物志の著者は陳寿を引き立てたとされる張華です。魏志が博物志を参照した可能性はありそうです。

2.①は 毋丘儉の追討で派遣された王頎が沃沮の古老から聞いた話として書かれています。

 →しかし、博物志では②③④と①は離れた位置に記述(後掲の当該部分参照)。

  一方で魏志は①②③④が並べて記述されているので、①だけでなく②③④も王頎が聞いた話のように誤解されてしまいます。しかし、博物志では違っているのです。

3.結果的に①だけが王頎が聞いた話になり、魏代のことになります。

 →後漢書に①がないのは、①は後漢代の情報では無いので妥当になります。

4.もし後漢書魏志を参照して書かれたとすれば、魏志を見て①だけは王頎が聞いた話と見抜いて、魏代なので削除したことになります。或いは范曄は魏志だけでなく博物志も参照して、①は時代が違うとして書かなかった???

 →沃沮は東夷伝の中でもマイナーと思われ、そのような国に5世紀の范曄が細かく手間暇かけるのは有り得ないでしょう。

5.魏志を見ると、前述のように①~④の全体が王頎が聞いた話に見えて、その中で②~④が後漢書に有ることで、「後漢書には魏代の情報が有る⇒魏代史書を参照した⇒魏志参照」の論法で、「魏志依拠」を主張する説の方がおられます。

 →今回の比較で①だけが魏代情報とすると、後漢書には①が無いことは、後漢書に魏代情報が有るという主張に対して否定根拠になります。

なお、「王頎」(或いはその部下)が聞いたという形になっている①も、内容が古伝説の類の話なので、そもそも毌丘儉の遠征と本当に関係があるのか?という疑問も個人的に有ります。(但し、①と②③④は、古伝説でも微妙にニュアンスが違うようにも感じますが、その説明は難しい)

また、追記に参考として載せたブログに有るように、「博物志は逸文集で、逸文の集め方も杜撰」らしいので、その面からの吟味も必要になるかも知れません。(博物志逸文は「中国哲学書電子化計画」を参照しました)

 

-----三書の沃沮伝説の記述-----

博物志 《卷二》

22 有一國亦在海中,純女無男。
說得一布衣,從海浮出,其身如中國人,衣兩袖,長二丈多分三丈が正
得一破船隨波出,在海岸邊,有一人,項中復有面。生得與語,不相通,不食而死。其地皆在沃沮東大海中。

・・・(④と①の間が離れている⇒毋丘儉遠征での王頎情報は次の①のみと推察

31 毋丘儉遣王領追高句麗王宮,盡沃沮東界。
問其耆老,言國人常乘船捕魚,遭風吹數十日,東得一島,上有人言,語不相曉,其俗常以七夕取童女沉海。

 

魏志 東沃沮伝
毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?
耆老言①國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。
有一國亦在海中,純女無男。

說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。
得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

 

後漢書
又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。
其耆老言,②嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。
於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。
又①說海中有女國,無男人。

或傳其國有神井,闚之輒生子云。

後漢書では④がありません。

その上で、他二書では、①②③の並びですが、後漢書では②③①という違いもあります。理由は未把握です。

なお、後漢書の最後には他二書には無い「或傳其國有神井,闚之輒生子云」が付いていますが、これの考察は今は行いません。

以上

[追記]

博物志と魏志を比較したブログが有ったので、中身は未検討のままメモとして、参考に記載しておきます(次記事で検討することにします)。

張華『博物志』と陳寿『三国志』における文章合致

『博物志』は一度散逸しており、現行の物は類書などから佚文を集め直したものらしいのです。ツイッターで教えていただきました。しかもその集め方が結構ずさんなのだとか・・・。*1
 となると、現行の『博物志』の文章を『三国志』と比較してもあんまり意味ないです。
 実際、上記で引用した段落Aと段落Bをそれぞれ見てみますと、どうやらこれらも佚文を改変した上で収めた物のようです。どうも、段落Aと段落Bは、『三国志』の様にひとつの段落であったのが元々の形であるように思えます。

追記以上

早稲田大学名誉教授「福井重雅」氏論文

期間限定で「福井重雅」氏の論文「後漢書』 『三国志』 所収倭 (人) 伝の先後関係」を掲載します。

福井氏の古稀・退職記念論文集「古代東アジアの社会と文化」の中に入っている論文です。(早稲田大学教授としての最終講義2006年1月の内容の一部をまとめたものとのこと、福井氏は残念ながら2020年に故人)

古代東アジアの社会と文化 - 株式会社汲古書院  2007年4月刊行

<福井重雅先生の古稀・退職を記念して知友・門下生25名による最新の研究成果を六章に収録。 福井重雅先生による「後漢書』 『三国志』 所収倭 (人) 伝の先後関係」 も収録する

→福井氏は論文の最後の方で次のように結論を述べています。結論に至る証明も明快です。

范曄はそれらの先行史料を利用して“修史”に從事すれば十分であって、わざわざ王朝や時代を異にする、後出の『三國志』を用いなければならない必要性や妥當性は、微塵もなかったのである。以上がこの論文の結論である。

➡「微塵もなかった」ということで、”「三国志魏志)」も参照した”というような、いわば中間的な考え方も、はっきりと否定しています。

また、「後漢代原史料」に相当する史書としては次のように述べて、東観漢記を基にした「華嶠(かきょう)」の後漢書(「漢後書」ともいわれます)を范曄は第一の原典としたと想定しています(その根拠は論文の中で述べています)。

「諸家後漢書」のうちで、范曄が最重要視して、『後漢書』の第一の原典として活用した一書こそ、ほかならぬ華嶠『後漢書』であった

→このような画期的内容の論文が、殆ど知られていなくて、実質的に埋もれた状態になっていたと思われ、今まで気が付きませんでした。

論文の中には色々証明が記載されていますが、特に分かり易いのは「もとの史料に書いてないことは、その史料を見ても書けない」というシンプルなものです。

例えば後漢書では「四夷伝」が「東西南北」と揃っていますが、魏志では烏丸鮮卑伝(北)と東夷伝(東)しかありません(しかも「烏丸鮮卑伝」は後漢書に必要な後漢代の記述無し)。

魏志を見ても無いものを、どうやって范曄が書けたのか?と考えれば、「後漢書魏志とは違う史書を参照した」ということがすぐに分かります。

また、当方調べの文字数割合(下図)で、後漢書東夷伝後漢書四夷伝全体の約8%、倭伝に至っては約1.3%と少なく、このような所に范曄が手間をかけたと考えるのは無理筋になるでしょう。倭伝だけを特別に扱ったという想定をするのでは、非常に恣意的な見方ということになってしまうと思います。

このような簡単な話が、江戸時代や明治時代からの長い期間、中国史の専門家でも分かっていなかったのが異常と思えます。それを福井氏が指摘しました(当方もブログ等で華嶠書も含め同様指摘実施)。

福井氏の証明は素晴らしい内容ですので、以下に全文掲載します。

なお、当方が「通説」として”「魏志依拠」説”と呼称しているものに対して、福井氏は「定説」として”後漢書』倭傳の『魏志』「倭人傳襲用論」”という呼称にして、検討を行っています。



以上

 

(B115) 通説な方々たち(3)「大塚初重」氏

著名な考古学者の「大塚初重」氏(明治大学)も「通説」だった話。しかも恩師からの影響。

大塚初重 「弥生時代の時間」

<私は学部の卒業論文の審査のときに、 後藤先生、杉原先生が並んでいる前で、杉原先生から「大塚君、『魏志倭人伝』と『後漢書』とどっちが先に編纂されたと思いますか」と聞かれ、「それは『後漢書』です」と答えたら、「駄目だな、お前は」といわれたことを覚えています。 魏志倭人伝』のほうが先で、『後漢書」は南朝の宋時代、四世紀から五世紀にかけて編纂されたものなんだということです。「もっとよく勉強しなければ駄目だ」と叱られましたが、ああいう恥をかいたことは一生忘れないものです。>

➡先生が間違っていて、よく調べると「成立年代は後漢書が後でも、後漢書は”後漢代原史料”を参照していた」が分かるのですけどね><

魏志依拠説は、このような間違いの連鎖を生む点でも罪深いです。

ただし、厳密には范曄は「後漢代原史料(改)」を主に参照したと思われ、その候補は華嶠「漢後書」と推察。

なお、華嶠は後漢代原史料である「東観漢記」を基にして、その煩瑣さを改善して「漢後書」を作成しましたが、范曄が「東観漢記」も直接参照した部分がある可能性も考えられ、この辺で、ややこしくなります。

 

大塚氏著書「原文」

以上

(B114) 通説な方々たち(2)「渡邉義浩」氏

◆渡邉義浩氏も著書で明確に「魏志依拠説」を表明している箇所が複数ありました。

①「魏志倭人伝の謎を解く」渡邉義浩

---「附章 魏志倭人伝 訳注」抜粋引用---

(5)投馬国・邪馬台国

(補注)

(一)『三國志』の諸版本は「」とするが、三國志』を参照して東夷伝を著した『後漢書などは「」とする。・・・。

---引用終了---

「原文」

②「全譯後漢書渡邉義浩 主編

②-1

---引用---

P392(補注)

(一)樂浪は、郡。後漢書』の韓傳は、『三國志』の韓傳に依拠しながら、一部を萢嘩が改めたと考えられている三國志』では、ここは帯方郡である。

---引用終了---

「原文」

 

②-2

---引用---

P393(補注)

(一)引用部分は、『三國志』巻三十東夷傳に、「諸國各有別邑、各之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼紳。諸亡逃至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠」とあり、節略されている。
後漢書三国志の節略と言っている

---引用終了---

「原文」

以上

[追記]

微妙な記述もあります。

②「全譯後漢書渡邉義浩 主編 より

---引用---

P399(補注)

(二)漢書』巻二十八上地理志上磐地の條に、「武帯の元封元年、略して以て循耳・珠現郡と爲す。民は皆布を服すること軍被の如く、中央を穿ちて貫頭と爲す」とある。邪馬臺國の記述が、『漢書』に多く依拠することも、渡邊義浩『三國志よりみた邪馬臺國』(前掲)を参照。

---引用終了---

➡「後漢書魏志』参照ではない部分は、『漢書』等の更に古い史書を参照」という見解は他でも見ます。

この見解にすると、”後漢代原史料」を参照したのではない”と言うことが出来て、「後漢代原史料があった」という「魏志非依拠」説の否定の論拠になります。

しかし、范曄は「衆家後漢書」を参照したと中国史書に書かれており、三国志だけでなく漢書等の古い史料のことも書かれていません。

一見して漢書に似ている部分は、「衆家後漢書」がそうなっていたのを范曄が参照したと考える方が妥当で、范曄が直接に漢書まで調べて参照したと見るのは考え過ぎでは。

 

③論文「『三國志』東夷傳 倭人の条に現れた世界観と国際関係渡邉義浩 より

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中華のまわりに北狄・南蟹・西戒・東夷の四夷が居る、という儒教中華思想を表現するためには、正史は北狄・南蟹・西戎・東夷の四夷傳をすべて備える必要がある。事実、『後漢書』は、四夷傳をすべて充足している。これに対して、『三國志』は、「倭人の条」を含む巻三十烏桓鮮卑・東夷傳が、唯一の夷狄傳である。烏桓鮮卑は、北狄にあたる。南には、孫呉、あるいは蜀漢が存在するため、南蜜傳を欠くことはやむを得ない。問題は、西戎(あるいは西域)伝が無いことにある。

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後漢書に四夷伝が有って、一方で三国志には「烏桓鮮卑東夷伝」だけであることを渡邊氏は認識している。「『三国志』を参照して東夷伝を著した『後漢書』」という上記①「魏志倭人伝の謎を解く」の見解は、これと矛盾するのでは?

「福井重雅」氏も述べていた論点で、後漢書の四夷伝は殆どが三国志には無いので、三国志を見ても書けない。

その中で四夷伝全体の約8%しかない東夷伝だけは、三国志参照したとするのは無理過ぎる話ではないか。

①「魏志倭人伝の謎を解く」より

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1-(7) (魏志倭人伝の)「郡より一万二千里の彼方」は、『翰苑』に引く『魏略』がもとの史料である。一万二千里は、大月氏国との関係から創作された数字であろう。ただし、それ は『魏略』の著者である魚拳や陳寿が創作できるものではない。陳寿が見た裴秀の 「禹貢地域図」では、朝鮮半島の南部から会稽郡の背後までを約五千里としていたと いう。これが、陳寿、あるいは『魏略』の著者である魚豢が、会稽郡の東方海上にあ るべき邪馬台国の、狗邪韓国からの距離を五千里(帯方郡からの距離を一万二千里)とし た拠り所であろう。陳寿が継承した帯方郡から邪馬台国までを一万二千里とする『魏略』の記述は、西晉の公式見解であった可能性が高いのである。

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➡「萬二千里」は後漢書にも有ります。

後漢書<樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。>

⇒渡邊氏の魏晋代の国際情勢から入る見方に対しては、「魏志非依拠」説に立つと、「後漢書にも(魏志参照では無く)萬二千里の記述が有る」という事実から、「萬二千里」は後漢代の話になり、魏晋代とは関係が無くなるという見方が出来て来ます。

渡邊氏は①などの著作を読むと、前述の「魏晋代の国際情勢」が主張の基本論拠になっている面があるように感じますが、「魏志非依拠」になると根底が崩れるのではないか?という気もします。

追記以上