王莽伝の「東夷王度大海奉國珍」は色々興味深い面があります。
検索しているうちに、次の論考があったのでメモのために掲載。
➡下の方に抜粋を添付します。今後詳細検討予定です。
ざっと見たところでは、以下の最初の方で赤太字にした箇所に注目。
よく言われていることではありますが、北部九州の「須玖岡本遺跡の甕棺からは紀元前一世紀中ごろの漢鏡が発見されていて」は、中国と交流が有ったことの明確な物証。
更に、「瀬戸内東部以東の地域には前漢時代の漢の遺物はほとんどなく」は、当然のこととはいえ、「倭の発展は北部九州から」を示していると思われます(出雲に関しては未把握)。
また、昨日hyenaさんから示唆を頂いた「貨泉」で、福山市で発見されたものの解説。<貨泉は,中国新の王莽が天鳳1年(西暦14年)に鋳造した貨幣で,中央に方孔があり右側に「貨」,左側に「泉」の2字を鋳出している。日本へは朝鮮半島を経て伝わったものと考えられ,中国文化の東方波及を示すと共に,弥生時代中~後期の年代を明確に示す好資料となっている。>
→北九州から西方への伝搬を表していると想定されます。
(なお、以下の論考の主題である「国名比定」は、今の地名との繋がりが少なくて分からないことが多すぎるので、個人的には殆ど考えていないため評価は未実施)
-----論考の抜粋引用-----
<漢書王莽伝をみると王莽はみずからの政治の正当性をアピールするため、四囲の異民族に働きかけ朝貢を促している。(補足12)中国の王朝にとって遠方からの朝貢は、政治的な利用価値があったということである。考古学的には「奴」国の王墓とされる須玖岡本遺跡の甕棺からは紀元前一世紀中ごろの漢鏡が発見されていて、「奴」国が古くから漢王朝に知られていたことが分かる。一方で瀬戸内東部以東の地域には前漢時代の漢の遺物はほとんどなく、いまだ朝見することはなかったであろう。(24)ここで何かの理由があって漢王朝にとって既知の北部九州の倭人に対して、倭地の奥地の未見の異俗の人々の朝貢を求めたことがあったとすれば、「奴」国にとってそのような奥地の国々を嚮導することには漢王朝側の期待にこたえる意味があり、一方で瀬戸内東部以東の国々にとってはこれまでかなわなかった漢王朝への朝貢がはじめてかなうという格別の意味があったことになる。その理由と時期に関しては再び触れることになるが、遠方からの朝貢を求めた漢王朝を含め「奴」国と東方の国々の三者にとって、其餘旁國二十一ヶ国の国名が記録された際の朝貢は利の有るものであったと思われる。
このことから直ちに二番目の疑問に対する答えが出る。「邪馬臺」国は北部九州から水行、陸行二ヶ月の遠方にあると書かれている。其餘旁國二十一ヶ国の朝貢に関する記録が北部九州の倭人に嚮導されてはるか遠方の国々がやってきたものであると書かれていたら、この二者を関連付けしようとするのは不自然ではない。問題はなぜ両者ともはるか南とされたかであるが、これは北部九州の倭人の朝貢では足りず、そのはるかかなたの国々の朝貢を求めたことに関連するので後で触れよう。
ここまで考えてくると一番目の疑問にも回答が出る。もしこの朝貢の記録が現存中国史書にその一部の記録でも留められているとすると、倭人の朝貢とは書かれていないであろう。なぜなら漢王朝の求めたものが既知の北部九州倭人社会からの朝貢ではなく、あえてその遠方からの朝貢を求めたからである。その時点の漢王朝にとって、それは倭人朝貢とは区別されなければならなかったはずである。こうなるとすでに述べた王莽政権下の前漢末の朝貢がもっとも蓋然性が高かろう。すなはち平帝の元始二年~三年(紀元2年~3年)の、東夷王の朝貢である。(補足12)ここに見える
「東夷王度大海奉國珍」
は、その当時海を渡って朝貢してくるとすれば倭人であろうと言われているものである。北部九州倭人社会は考古学的に紀元前一世紀中ごろには、楽浪との外交を持っていたことは間違いない。岡村 秀典氏の言うように、(24)これは漢書地理志幽州屬に見える
「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」
に該当するであろう。にもかかわらずそれより後の朝貢において「東夷王」と表現されるということは、このときの朝貢が地理志に見える倭人とは異なると言いたかったのであろう。倭人と同種であることが分かったとしても、王莽政権としては未見の人々であることを強調したかったのであろう。
其餘旁國二十一ヶ国の国名の記録が、王奔伝の元始五年条にある前漢末の朝貢の今は失われた記録の残された部分であれば、まさに3節において其餘旁國二十一ヶ国の漢字音の性格から求めた、漢字音からの記録時期の推定とも合致するのである。
ここで今までに出てきた残りの疑問に答えねばならない。なぜ王莽政権は北部九州の倭人では物足りずそのはるか遠方の国々の朝貢を求めたのか、またその国々の地域をなぜ九州の南であるとしたのか。その鍵は再び王莽伝にある。(補足12)
「莽既致太平,北化匈奴,東致海外,南懷黄支 ,唯西方未有加。」
王莽は四囲の蠻夷を招き、遠路の朝貢としてそれを政治的に利用しようとしたのである。引き続く朝貢の記事はそれに対応しているのである。
「越裳氏重譯獻白雉, 黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯橫被四表,亦亡以加之。」
ちなみに「越裳氏」に関しては
「始,風益州令塞外蠻夷獻白雉, 元始元年正月,莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。」
まさに招きよせて政治的なセレモニーとしているのである。
東に対しては東致海外であるから、東夷王は東の海の向こうからやってこなければまずいのである。漢書地理志に北の幽州の楽浪に結び付けられている、既知の倭人ではまずいのである。王莽は東の海の向こう(海外)からやってくる民族を探したはずである。そしてまさにうってつけの民族がいたのである。漢書地理志呉地の
「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」
である。果たして「東鯷人」は會稽にやってきていたのであろうか。漢の時代を下る三国志の時代について書かれた、三国志呉書に下記のような記載がある。
「遣將軍温、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲.亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬來神山及仙藥,止此洲不還.世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者.所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還.」
孫権は徐福がたどり着いたとする亶洲へ軍を派遣したが、遠くてたどり着かなかった。また亶洲から會稽に人が来て貨布するとも會稽東縣の人が嵐にあって亶洲へたどり着くともされているが、東鯷人の記載は見られない。この記事を見る限り漢書地理志の言うような定期的な朝貢ができる状況であるとも思われない。私は會稽から倭人が朝貢しそれが東鯷人とみなされたと言う説を唱えたことがあるが、文献的にも考古学的にもどうも無理があるようである。(25)東鯷人はおそらく會稽には着ていないのではないか。ただ會稽東縣すなはち會稽東冶には、海の向こうから時に人がやってきていたのであろう。王莽はこれに目を付けたが、會稽から朝貢させることは出来なかったのではないか。
地理的に會稽海外にあたる地域の国々は、その当時の中国人の地理観から見て楽浪の南の海中にいる倭人のさらに南に当たるであろう。すなはち會稽海外にあたる地域の国々を朝貢させるために、楽浪の南にいる倭人にそのさらにはるか南の国々を引き連れて朝貢させることを思いついたのではないか。「奴」国の引き連れていったのは実際には東の国々であったが、王莽にとってはそれらの国々ははるか南にある會稽海外の国々であるべきだったのである。漢書地理志呉地の記録は、東鯷人が會稽にやって来たと言っているのではなく、會稽海外にいる東鯷人が定期的にやってきたと言っているのであろう。すなわちそれは東夷王であり「奴」国に嚮導された瀬戸内東部以東の、北部九州とは異俗の青銅器人であったのであろう。「分為二十餘國」とはまさに其餘旁國二十一ヶ国に他ならないのではないだろうか。(補足13)この王莽の時代に中国東方の島々が楽浪海中からはるか南の會稽東冶の沖にまで連なっていると言う中国人の地理観が出来上がり、倭国の奥地はすなわち南であると言う固定観念が成立したのであろう。
補足12
王莽伝に
[莽既致太平,北化匈奴,東致海外,南懷黄支 ,唯西方未有加。乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌,使獻地,願内屬。憲等奏言:「羌豪良願等種,人口可萬二千人,願為内臣,獻鮮水海、允谷鹽池,平地美草皆予漢民,自居險阻處為藩蔽。問良願降意,對曰:『太皇太后聖明,安漢公至仁,天下太平,五穀成孰,或禾長丈餘,或一粟三米,或不種自生,或蛮不蠶自成,甘露從天下,醴泉自地出,鳳皇來儀,神爵降集。從四歳以來,羌人無所疾苦,故思樂内屬。』宜以時處業,置屬國領護。」事下莽,莽復奏曰:「太后秉統數年,恩澤洋溢,和氣四塞,絶域殊俗,靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉, 黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯橫被四表,亦亡以加之。今謹案已有東海、南海、北海郡,未有西海郡,請受良願等所獻地為西海郡。臣又聞聖王序天文,定地理,因山川民俗以制州界。漢家地廣二帝三王, 凡十(三)〔二〕州, 州名及界多不應經。堯典十有二州界,後定為九州。漢家廓地遼遠,州牧行部,遠者三萬餘里,不可為九。謹以經義正十二州名分界,以應正始。」奏可。又增法五十條,犯者徙之西海。徙者以千萬數,民始怨矣。]
とある。以下小竹武夫氏訳(40)
奔は国内を太平にした後、北方に匈奴を教化し、東方に海外の民を招致し、南方に黄支国を手なずけたが、ただ西方にはまだ何ら手を差し伸べていなかった。そこで中郎将平憲らをつかわし金幣を多くもたらして塞外の羌族を誘い、土地を献じて属国となることを願わせた。憲らが奏言した。「羌の豪族良願らの種族、その人口一万二千人ばかりが、内属して臣となり、鮮水海・允谷の塩池を献じ、美草の平地をすべて漢の民に与え、みずからは険阻な処にいて漢の藩蔽となりたいと願うております。良願らが帰順を願う意を問うたところ、対えて申しますには、『太皇太后は聖明の君であり、安漢公はこの上ない仁者であり、天下は太平で、五穀は成熟し、あるいは禾本の長さ丈余、あるいは一粟三米、あるいは植えずして自生し、あるいは繭は蚕せずして自生し、甘露が転から下り、醴泉が地からわき出で、鳳凰が来て儀容を正し、神爵が降りて集まりました。四年来、羌人には病苦がなくなり、それゆえ内属を思い楽うているのです。』と。時期をみて事業に対処し、属国都尉を置いて護るべきであるとぞんじます。」事の処理が奔に下げ渡された。奔はまた奏上して言った。「太后が大統を掌握されてから数年でありますのに、恩沢はひろくあふれ、和気は四方に満ちて、絶域の風俗を異にする人たちも、わが正義を慕わないものがおらなくなりました。越裳氏は通訳を重ねて来たって白雉を献上し、黄支の民は三万里の遠方から活きている犀を貢物としてもたらし、東夷の王は大海を渡って国の珍宝をたてまつり、匈奴の単于は礼楽の制定作興に順い、二字名を忌んでやめました。いま西域の良願らもまた土地もろとも臣属しました、昔、堯の国は四方の外にひろくゆきわたっていて、それ以上広がりようがありませんでした。いま謹んで考えてみますに、すでに東海・南海・北海の三郡がありますのに、まだ西海郡がありません。なにとぞ良願らの献じた土地を受け入れて西海郡となさいますように。臣はまた、『聖王は天文を序で、地理を定し、山川・民俗に因って州界を制定する』と聞いております。漢家の地は二帝・三王の地よりも広く、およそ十三州ありますが、州名と境界はその多くが経典に相応していません。『書』堯典の十二州は後これを九州に定めました。漢家が土地を遼遠の彼方まで廓げたため、州牧がその部を巡視しましても、遠いものは三万里にも及んで、九つに分けることができません。謹んで経典の意にそうて十二州の名を正し、境界を分けて、始めの正しさに相応させたいものとぞんじます。」奏が裁可された。また法五十条を増し、犯す者はこれを西海郡に流すことにした。流されたものが千・万をもって数えられ、民は始めて怨んだ。
王奔伝ではこれに先立って、越裳氏に関しては
「始,風益州令塞外蠻夷獻白雉, 元始元年正月,莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。」
また続いて
「太后乃下詔曰:「大司馬新都侯莽三世為三公,典周公之職,建萬世策,功(能)〔德〕為忠臣宗, 化流海内,遠人慕義,越裳氏 重譯獻白雉。其以召陵、新息二縣戸二萬八千益封莽,復其後嗣,疇其爵邑, 封功如蕭相國。以莽為太傅,幹四輔之事,號曰安漢公。以故蕭相國甲第為安漢公第,定著於令,傳之無窮。」」
匈奴に関しては
「莽念中國已平,唯四夷未有異,乃遣使者齎黄金幣帛,重賂匈奴單于,使上書言:「聞中國譏二名,故名嚢知牙斯今更名知,慕從聖制。」又遣王昭君女須卜居次入侍。所以誑耀媚事太后,下至旁側長御,方故萬端。」
平帝紀では、越裳氏に関しては
「元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,黑雉二,詔使三公以薦宗廟。」
黄支に関しては
「二年春,黄支 國獻犀牛。」
西海郡関連では元始四年の項に
「置西海郡,徙天下犯禁者處之。」
とある。匈奴と東夷の王に関する記事は王奔伝に限られる。匈奴は元始三年と思われるが、東夷の王の朝貢に関しては実は王奔伝を信じたとしても元始中という以上には分からない。ただ王奔伝の順化に関する記載の順、越裳氏、黄支、東夷王、匈奴が東夷王を除いて帝紀などから分かる年次順になっていることからするなら、元始二年から元始三年の間と思われる。
地理志では、黄支に関しては越地の条に
「平帝元始中 王莽輔政 欲燿威德 厚遺黄支王 令遣使獻生犀牛」
とある。地理志には郡や県の改名等、王奔に関した記載が多い。人口統計に関しては、王奔政権下の元始二年のものと思われる。これらのことから
「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」
が、前漢末の王奔政権下での
「東致海外」
に関連する可能性は十分にあると考える。
民族 | 王奔伝元始五年 | その他王奔伝 | 平帝紀 | 地理志 | |
---|---|---|---|---|---|
帰順 | 王奔の策 | ||||
越裳氏 | 1 | 風益州令塞外 | 始 | 元始元年春正月 | ― |
黄支 | 2 | 南懷黄支 | ― | 元始二年春 | 越地:自日南障塞 |
東夷王 | 3 | 東致海外 | ― | ― | 呉地:會稽海外 |
匈奴 | 4 | 北化匈奴 | 皇帝三年皇后記事の前 | 元始三年春に皇后記事 | ― |
羌 | 5 | 誘塞外羌 | ― | 元始四年夏西海郡置 | ― |
元始年中の蠻夷記事
補足13
森博達氏は、漢字音の考察から其餘旁國二十一ヶ国(森氏は遠絶二十一ヶ国とする。)を前漢時代の東鯷二十餘國とし、九州の有明海川から博多湾側へ並ぶ国々である可能性を示唆した。(3)
古田武彦氏はかって、まったく別の観点から東鯷人を銅鐸祭祀の人々であるとの説を唱えられたことがあるようだが、現在は否定されているとのことである。
24.『三角縁神獣鏡の時代 』 岡村 秀典著 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館>
-----引用終了-----
➡この論文の著者は、以下のように「渡大海」の東夷としては「東鯷人」に着目しているようです。これに対しては個人的には何とも言えないので、今は保留にしておきます。
<王莽は東の海の向こう(海外)からやってくる民族を探したはずである。そしてまさにうってつけの民族がいたのである。漢書地理志呉地の「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云。」である。>
以上